13-3 教会の言い分にある詭弁に気がつかなかった

これらの神学者達の説明によれば、

信仰の根本的な拠(よ)り所は 神聖不可侵の教会だった。

このドグマ(dogma 各宗教・宗派の独自の教理・教義)の承認からの
不可避の結論として、

教会の説くところのものは 一切が真理だということになる。

愛によって合一され、

したがって正しき真理を知る信者の集合体としての教会が、

私の信仰の基礎となったのだ。



私は自分に言うのだった。

神の真理は 唯一人の人間の手には届かない。

それはただ、愛によって合一せられた人々の合同体にのみ啓示(けいじ)される。

真理を認識するためには、分裂を避けなければならないが、

分裂しないためには 愛すること、

見解を異にする事柄とも 折合いをつけることが必要である。

真理は 愛情に対してのみ啓示される。

それ故 おしお前が教会の儀式に服従しないなら、
お前は 愛を破壊することになり、
愛を破壊すれば 
自(みずか)ら真理認識の可能性を放棄することになる。云々(うんぬん)。

---当時私は 
こうした言い分の中にある詭弁(きべん=こじつけ)に気がつかなかった。



当時は 愛による合一が最大なる愛を生むことは出来ても、

決してニケヤ信条の中で固定的な言葉で言い現わされたような、
神の真理を与えることは出来ない ということが分らなかった。

更にはまた、

愛というものが、人々の合一のためには、
真理の特定の表現がぜひ必要だと義務づけることはしない
ということに気がつかなかった。

私は当時 この言い分の誤謬(ごびゅう)に気づかず、

そのおかげで 正教会の儀式の全てを、
大部分理解出来ないまま 受け容れ、
遵奉(じゅんぽう=教義などに従い、それを守ること)するということが出来たのだった。

当時私は 苦心惨憺(くしんさんたん)して、いろんあ理窟をのべ立てたり、

反論したりすることを避けようと努め、

私が衝突する教会の諸教条を、出来るだけ合理的に説明しようと試みたのである。



教会の儀式を遵奉しながら、私は自分の理性をなだめ、

全人類の中の 古来の遺訓に身を委(ゆだ)ねた。

私は 自分の先祖、愛する父、母、祖父、祖母と合体した。

彼らと、そして全ての先人達は、信じ、生き、そして私をこの世にもたらしたのだ。

私は民衆の中の、自分が尊敬する幾百万の人人と合体した。



のみならず、これら儀式遵奉という行為は、

それ自体何も悪いものではなかった。

(情慾に耽(ふけ)ること、それを私は 悪と呼んだ。)

教会の朝の礼拝参加のため 早起きする時、

私はそれがただ、人生の意味の探求という大義(たいぎ=大切な事柄)のために

己れの理智の傲慢(ごうまん)を和らげ、

自分の先祖や同時代人と近づく という目的で、

自分の肉体的安逸を犠牲にするだけでも結構なことだと思ったのである。



儀式上の精進、毎日の礼拝叩頭(こうとう=頭を地面にすりつけてお辞儀すること)、

あらゆる斎日(ものいみ)の厳守といった際も同様だった。

これらの犠牲が いかに数ならぬものであっても、

それは善なるものの名において 献(ささ)げられたのである。

私は精進し、斎(ものい)みし、
家にあっても教会においても定刻の祈祷(きとう)を欠かさなかった。

教会の祈禱(きとう)に耳を傾ける時、私は各語々々をかみしめ、

もし出来れば それらの言葉に意味を附与したりした。

朝の勤行において 私にとって一番大切な言葉は、

《我等互いに相愛し、思いを一にせん》というのだった。

ずっと先の方の《相共に父と子と精霊とを伏し拝まん》というのを

私は黙過(もっか=黙って見過ご)した。

何のことやら 分らなかったからである。