全人類が生きることの出来たかげには、
全人類が生活に意味を附与しながら それを続けて来たことのかげには、
---これら幾十億の人々の許(もと)に もっと違った、
真実の信仰認識があるはずである。
そもそも 私やソロモンやショーペンハウエルが自殺しなかったということ、
それが私に 信仰の実在を肯定させたのでなく、
これら幾十億の人達が生きて来たし 生きており、
私やソロモンのような人達を、己れの生の波間にただよわせた、
ということが そうさせたのではないか。
☆
そこで私は 貧しく素朴で 無学な人々の中の信仰家
---巡礼、修道僧、異端派、農民 といった人達に接近し始めた。
民衆出身のこれらの人々の信仰も、
我々仲間の偽信仰家と同様に 基督教の信仰だった。
彼らの場合もまた、基督教の真理に非常に多くの迷信が混入されていたが、
ただ 次のような違いがあった。
即(すなわ)ち、我々仲間の信仰家には 迷信など全然必要でなく、
それが彼らの生活と編み合わされておらず、
ただ 彼らなりの快楽主義的 気慰(きなぐさ)めにすぎないのに、
労働階級の信仰家の場合は、
それが彼らの生活と しっかり編み合されていて、
そうした迷信のない彼らの生活は 想像することも出来ない
---つまり 迷信が その生活の不可欠の条件だったのである。
我々仲間の信仰家の全生活は、 彼らの信仰への背反(はいはん)だったが、
信仰し、そして額(ひたい)に汗する人々の 全生活は、
その生の意味を附与する信仰認識の確証だった。
そこで私は、これらの人々の生活と信仰を見詰め始め、
見詰めれば見詰めるほど、
彼らには 真の信仰が存在するということ、
彼らの信仰は 彼らに不可欠のもので、
それのみが 彼らに生の意味を与えているのだということを確信した。
☆
信仰のない生活が可能で、
千人の中 一人も自分を信仰家と認める者がいるかいないかの
我々仲間の中で見たものと反対に、
彼らの中には 千人の信仰者の中に
一人の不信仰者が いるかいない程度だった。
全生活が 遊惰(ゆうだ)と安逸(あんいつ)と、生への不満のうちに過ぎて行く
我々仲間の中で見たものと反対に、
これらの人々の全生活は 苦しい労働に明け暮れ、
しかも彼らは その生活に 満足しているのだ。
我々仲間の人達が、欠乏や苦悩の運命に反抗し、
それに憤慨(ふんがい=ひどく腹を立てること)するのに反して、
これらの人々は 病いや悲しみを
ちっとも不思議と思わず、あらがいもせず、
それらを全て善であるという静かな鞏固(きょうこ)な信念をもって
受け容れるのだった。
我々が 賢ければ賢いほど、 ますます生の意味が理解出来ず、
自分達が苦しんだり 死んだりする事に
何か 意地の悪い嘲笑を感ずるのに反して、
それらの人々は 生き、苦しみ、死に近づき、
しかも平静に、何よりもしばしば喜びをもって苦しみに耐えているのだった。