その時の精神状態は、言って見れば 私に次のように感ぜられた。
--私の生涯は、一種の、
何者かが私の上に仕組んだ 愚劣で意地悪なメロドラマにすぎない、と。
私は その自分を創造した《何者か》を認めなかったにもかかわらず、
何者かが私をこの世に生まれさせて、意地の悪い、愚劣なふざけ方をしている、
といった表象形式は、私にとって 最も自然な表象形式だったのだ。
☆
私にはどうでも、今、どこかで何者かが、
私がたっぷり30年乃至40年生きつづけ、
学び、成熟し、心身共に発達し、
そして 現在の私のようにすっかり思考力も固まって、
そこから人生の全展望が開ける生の頂点に達して、
--さてそこで、人生にはなんにもないし、過去にもなかったし、
未来にもないであろうことが はっきり分かって、
馬鹿みたいにぼんやりと その頂点に立っているのを見て 面白がっている、
といった気がした。
そいつにしたら ふき出したいだろうなぁ-- といったような。
☆
然(しか)し その私を嘲笑する何者かが存在するにしろ しないにしろ、
そんなことで私の悩みが軽減される訳のものでもなかった。
私は 自分のどんな行為にも、また生活全体にも、
なんら合理的な意義を附することが出来なかった。
私はただもう、なぜ最初からそのことが分からなかったのだろう と不思議だった。
そんなことはもう 疾(と)っくにみんなに分かっているはずだ。
今日-- でないなら明日、病気が、死が 愛する人々を、
(すでに過去において 眼のあたり 起きたことだが)そして私を襲い、
悪臭と蛆(うじ)との外 なんにも残らなくなるのだ。
私の業績は、よし どんなものにせよ、早晩すっかり忘れ去られ、
そして第一に この私が 元も子もなくなってしまう。
だのに一体 何のために齷齪(あくせく)せねばならないのか?
どうして人は この事実に眼を瞑(つむ)って生きて行けるのか?
-- 全く驚く外はない!
生に酔いしれている間だけは、生きて行かれもしよう。
でも 酔いがさめるや否や、
それは何もかも欺瞞、しかも 愚劣な欺瞞であることを見ないではいれまい。
いや こうなれば全く、滑稽とか巧妙どころの騒ぎでなく、
-- ただもう 残酷で愚劣という外(ほか)はないのだ。
☆
古い東洋の寓話の中に、廣野(=広野)で怒り狂う野獣に出会った旅人の話がある。
旅人は 野獣をのがれるため、水のない井戸に逃げ込むのだが、その井戸の底には、
口を開けて 彼をのみ込もうと構えている一匹の竜がいるのが見える。
そこで この可哀そうな男は、怒り狂う野獣に滅ぼされるのを恐れて、
井戸からはい上がる勇気もなく、
竜にひとのみにされそうで、井戸の底にとび降りることも出来ず、
中途の隙間に生えている潅木(かんぼく)の枝につかまっている。
手がだんだん疲れて来て、彼は間もなく 両面から彼を待ち構える滅亡に
身を委ねる外ないことを感ずる。
それでも彼はつかまっているのだが、ふと見ると 二匹の、
一つは黒い 一つは白い鼠が、彼のつかまっている潅木の幹の周辺を
規則正しく ぐるぐる廻りながら、それを齧(かじ)っているのに気がつく。
今にも潅木が倒れちぎれると、彼は竜の口へ落ちて行く。
旅人はこれを見て、所詮(しょせん)もうおしまいだと知る。
然し ぶら下がっている間に彼は あたりを見廻して、
潅木の葉に 蜜の雫があるのを発見し、舌をのばして それを嘗(な)める。
こんな風に私も、死の竜が どうでも私をやっつけようと待ち構えているのを知りながら、
生の小枝にしがみつき、どうしてまた こんな苦境に陥ったのか、
訳が分らないでいるのである。
そこで私は、以前に私を喜ばした蜜を嘗めようとして見る。
でもこの蜜は、も早 私を喜ばさない。
そして一方 白と黒の鼠-- 昼と夜--が、私のつかまっている小枝を嚙(かじ)っている。
私には竜の姿がはっきり見えて、蜜の味が ちっとも甘くないのである。
私がじっと見つめるのは、--ただもう 宿命の竜と鼠の姿--であって、
それから眼を離すことが出来ない。
これはもう 寓話などではなく、これこそまぎれもない、
論駁(ろんばく=相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること)の余地のない、
誰にも分り切った真実なのである。
☆
竜の恐怖を蔽いかくす、従前の生の喜び という欺瞞は、
もう私をだますことは出来ない。
どんなに私に、
お前は 生の意義を悟りっこない、
考えるな、ただ生きよ、
と言っても、そんな訳には行かない。
私は以前から、あまりにも永い間 そんな風に暮して来すぎたのだ。
今では私は 昼と夜、私を死へと導く矢の如き光陰を見ずにはいられない。
私は それだけを見つめる。
なぜなら それだけが--唯一の真理である。
ほかのものは--みんな まやかしにすぎない。