私は永いこと、言葉の上でなく 事実において
我々 最もリベラルでまた学問ある人々に特有の、
こうした狂気の状態のうちに暮した。
然しながら 私のうちに、真の労働階級に対する一種不思議な、
フィジカルな愛情があって、
私に彼らを理解させ、
彼らが 我々の考えるほど愚かでない ということを示してくれたからか、
あるいはまた、私としては
自分の出来る最善なことは首を縊(くび)ることだということの外
何も知らない という確信が 嘘いつわりのないものであったためか、
--- 私は、もし自分が生きて行きたいし、生の意味を悟りたいならば、
その意味を、勿論 生の意味を失って 自殺しようと欲している人達の中にでなく、
数十億の過去及び現在の人類大衆、自分自身や我々の生活を造り、
それを支えている人々の間に 探さなければならない と直感したのだった。
☆
そこで私は 過去及び現在の、
素朴な、学問も富もない、量り知れぬ数の 一般大衆を見廻して、
まる別個のものを見たのである。
私には、過去及び現在の これら幾十億の人々は、
みんな、ほんの稀(まれ)な例外はあっても、
私の分類の中にはいって来ないこと、
また 彼ら自身 問題を非常に明白に提起し、
それに答えているのだから、
彼らを 問題を理解せぬもの
と認める訳には行かない、ということがわかった。
☆
彼らを快楽主義者 と呼ぶことも出来なかった。
というのは、彼らの生活は 快楽よりもむしろ欠乏と苦悩からなっているのだから。
また 不合理に無理のない生活をつづけているものとは なおさら言えなかった。
というのは、彼らの生活上の実践も、死そのものも、
彼らにはちゃんと説明がついていたからである。
☆
自殺することは、彼らは 最大の悪と考えていた。
全人類の中には 何かこう 私の認め難い、
軽蔑しているような人生の意義に関する見解があることが分った。
つまり 合理的な見解は、生の意味を与えないで それを排除する。
幾十億の人々によって、全人類によって与えられる生の意味は、
何か軽蔑に値する、間違った見解に基づいている ということになるのだった。
☆
学者や智者の中の合理的な見解は、人生の意味を否定するが、
莫大な数の人々、全人類--は その意味を不合理な見解の中に認める。
そしてこの不合理な見解というのが、
外ならぬ 信仰、
私が放棄せざるを得なかった その 信仰だったのだ。
それは一体にして 三位なる神、
六日間での天地の創造、悪魔と天使、
その他 私が狂気にでもならぬ限り認めるわけに行かぬ一切のことだった。
☆
私の立場は 恐ろしいものだった。
私は 自分が合理的見解の道に進めば、
生の否定以外 何も発見しないことが分っていたし、
また 信仰の世界には、生の否定より もっと不可能であるところの、
理性の否定以外に 何もないことが分った。
☆
合理的見解に従えば、生は悪であり、
人々はそれを知っているのであるから、
生きたくなければ それは彼らの意のままのはずである。
ところが 彼らはこれまで生きて来たし、生きつつあり、
かく言う私も、もうとっくに 生が無意味であり悪であることを知っていながら生きて来た。
---といったことになる。
一方 信仰によれば、
人生の意味を理解するためには、
私は理性を、まさにそれにとってこそ意味が必要な理性を
自(みずか)ら否定し去らねばならぬ
---ということになる。