8-3 「合理的な見解=生は悪」VS信仰「理性の否定」

私は永いこと、言葉の上でなく 事実において

我々 最もリベラルでまた学問ある人々に特有の、

こうした狂気の状態のうちに暮した。

然しながら 私のうちに、真の労働階級に対する一種不思議な、
フィジカルな愛情があって、

私に彼らを理解させ、

彼らが 我々の考えるほど愚かでない ということを示してくれたからか、

あるいはまた、私としては 
自分の出来る最善なことは首を縊(くび)ることだということの外
何も知らない という確信が 嘘いつわりのないものであったためか、

--- 私は、もし自分が生きて行きたいし、生の意味を悟りたいならば、

その意味を、勿論 生の意味を失って 自殺しようと欲している人達の中にでなく、

数十億の過去及び現在の人類大衆、自分自身や我々の生活を造り、

それを支えている人々の間に 探さなければならない と直感したのだった。



そこで私は 過去及び現在の、
素朴な、学問も富もない、量り知れぬ数の 一般大衆を見廻して、

まる別個のものを見たのである。

私には、過去及び現在の これら幾十億の人々は、

みんな、ほんの稀(まれ)な例外はあっても、

私の分類の中にはいって来ないこと、

また 彼ら自身 問題を非常に明白に提起し、
それに答えているのだから、
彼らを 問題を理解せぬもの
と認める訳には行かない、ということがわかった。



彼らを快楽主義者 と呼ぶことも出来なかった。

というのは、彼らの生活は 快楽よりもむしろ欠乏と苦悩からなっているのだから。

また 不合理に無理のない生活をつづけているものとは なおさら言えなかった。

というのは、彼らの生活上の実践も、死そのものも、
彼らにはちゃんと説明がついていたからである。



自殺することは、彼らは 最大の悪と考えていた。

全人類の中には 何かこう 私の認め難い、
軽蔑しているような人生の意義に関する見解があることが分った。

つまり 合理的な見解は、生の意味を与えないで それを排除する。

幾十億の人々によって、全人類によって与えられる生の意味は、
何か軽蔑に値する、間違った見解に基づいている ということになるのだった。



学者や智者の中の合理的な見解は、人生の意味を否定するが、

莫大な数の人々、全人類--は その意味を不合理な見解の中に認める。

そしてこの不合理な見解というのが、

外ならぬ 信仰、
私が放棄せざるを得なかった その 信仰だったのだ。

それは一体にして 三位なる神、

六日間での天地の創造、悪魔と天使、

その他 私が狂気にでもならぬ限り認めるわけに行かぬ一切のことだった。



私の立場は 恐ろしいものだった。

私は 自分が合理的見解の道に進めば、
生の否定以外 何も発見しないことが分っていたし、

また 信仰の世界には、生の否定より もっと不可能であるところの、
理性の否定以外に 何もないことが分った。



合理的見解に従えば、生は悪であり、
人々はそれを知っているのであるから、
生きたくなければ それは彼らの意のままのはずである。

ところが 彼らはこれまで生きて来たし、生きつつあり、
かく言う私も、もうとっくに 生が無意味であり悪であることを知っていながら生きて来た。
---といったことになる。

一方 信仰によれば、

人生の意味を理解するためには、

私は理性を、まさにそれにとってこそ意味が必要な理性を
自(みずか)ら否定し去らねばならぬ
---ということになる。