《だが ひょっとすると、私は何かを見落としていないだろうか?
何かを理解し損っているのではないか?》
幾度か私は こう自問した。
《こうした絶望的状態が、人間に固有の宿命だなどということは、
あり得るはずがないではないか!》
そこで私は、人々が獲得したあらゆる学問の中に、
私の疑問に対する説明を探した。
苦しみながら 永いこと探した。
のんきな好奇心とか、また漫然とした気持ちで探したのではなく、
滅亡に直面した人が 救いを探し求めるように、
苦しみながら、執拗に、昼夜の別なく探した。
-- それでも なんにも見つからなかったのである。
☆
私は あらゆる学問の中を探しまわった。
それでもやっぱり説明が見つからなかったばかりではなく、
私のように 学問の中にそれを探したものは、
みんなちょうど私みたいに、なんにも発見出来なかったのだ
ということを 確信するようになった。
それも単に発見出来なかったばかりでなく、
私を絶望に導いたところのそのもの、即ち 所詮人生は無意味である
という事実こそ、人間に手の届く唯一の疑いなき知識であるということを、
はっきり承認しているのだった。
☆
私は どこもかしこも探したし、
また私が過した学究生活のおかげで、それと同様に、
学者社会との交際によって 私には自分の学問をすっかり私に、
書物でばかりでなく談話においても披露することを辞せぬ
ありとあらゆる学問分野の学者達自身と接することが出来たという事実のおかげで、
私は 学問がおよそ人生問題に答え得るところの全てを知ったのである。
私は永い間どうしても、学問というものが人生問題に対して
現在答えているようなこと以外には、
何も答え得ない ということを信ずることが出来なかった。
永いこと私には、実人生の諸問題と何らかかわりのない
その諸命題を説き立てる科学の、物々しい、勿体ぶった調子に眼を注いで、
自分は何か理解し損っているのではないかという気がした。
永いこと私は学問に対しておじ気を懐(いだ)き、
学問の与える答えが 私の疑問にぴったりしないことの原因は、
学問のせいではなくて、私の無理解のせいだという気がした。
でも 事は私にとって冗談半分でもなく、気なぐさみでもなく、
全生活の問題だった。
そこで私はいや応なしに、
私の疑問こそ、あらゆる学問の土台となるべき当然の問題であり、
こうした疑問を持つ私が悪いのでなくて、
もしも科学がおこがましくも これらの疑問に答え得るとするならば、
その方にこそ罪はあるのだ という確信に達したのである。
☆
私の疑問-- 50歳の時 私を自殺に導こうとした--は万人の胸中に、
物心つかぬ幼児から最も聡明な老人にいたる万人の胸中に横たわる、
最も単純な疑問であって、
私が実際に経験したように
それなしでは 人生そのものが不可能であるところのものである。
その疑問というのは 次のようだった。
《私が今日なすこと、明日なすであろうことから 何が生ずるのか?
-- 私の全生涯から 何が生れ出るのか?》
☆
この疑問を別な風に言い現わせば、次のようになるであろう。
《一体なぜ、私は生きて行くのか?
なぜ何かを望むのか?なぜ何かを為すのか?》
もっと別な言い方をすれば、次のようにも言える。
《私の生に、どうにものがれようのない、
そして目前に迫っている死によって滅ぼされない、
なんらかの意味があるのだろうか?》
☆
この、表現こそ様々でも唯一つである疑問に対する答えを、
私は人間の学問の中に探した。
そして私は この疑問に対して あらゆる人間の学問は、
いわば向い合う二つの半球にわけられていて、
相対する尖端に各々 南極北極があるという具合なのを発見した。
一つは否定的な、他は肯定的な。
然しながら 否定肯定いずれの極にも、
人生問題に対する答えはなかったのである。
☆
一方の系列の学問は、いわば問題の存在を認めないで、
その代り それに頓着(とんちゃく=深く気にかけてこだわること)なく
自分で提起した問題に、明白かつ正確に答える。
それは経験科学の系列で、その尖端には数学がある。
も一つの学問の系列は、問題の存在を認めるけれども、
それに答えることをしない。
それは思弁的学問の系列で、その尖端には形而上学がある。
☆
ずっと若い頃から、私は思弁的学問に興味を覚えた。
でもその後、数学や自然科学が私を魅惑した。
そして私が自分の疑問をはっきり自分に提起しない間は、
この疑問が切実になって来て、
執拗(しつよう)に解答を迫るということがなかったその間は、
私が学問が与えるそれらの問題解答の模造品で満足していたのである。
で経験科学の分野で言えば、私は自分に次のように言いきかせた。
《万物は発展し、分化し、高等化し、完成へと向って行く。
そしてその運行を導く諸法則がある。お前は全の中の個である。
可能な限りこの全を認識し、また発展の法則を認識すれば、
お前はこの全におけるお前の位置、
そしてまた お前自体を認識することが出来るのだ》と。
白状するのが恥ずかしいくらいだけれども、
まぁこれくらいのところで満足していた時代が 私にあったのである。
それは 私自身がまさに成熟し発達しつつある時代だった。
私の筋肉は発育し、強健になり、記憶力は豊かになり、
思考力と理解力は増大していた。
私は成長し、発達していた。
そしてこの成長を身内に感ずる私が、
これこそ、私がその中に私の人生の諸問題の解決をも発見できる、
全世界の法則だと考えたのも 無理はなかったのである。
でも 私の中の成長が停止する時がやって来た。
私は自分が発達しているのではなく、萎縮(いしゅく)しつつあるのを感じた。
筋肉の力は弱まり、歯は脱(ぬ)けはじめたのだ。
そこで私は、この法則が私に何も納得の行く説明を与えないばかりか、
どだいそんな法則もありもしなかったし、あるはずがないし、
生涯の或る特定の期間に自分の中に見出したものを、
法則と思い過しただけの話ということが分った。
そこで私は もっと厳正な態度で、この法則を裁定して見ようとした。
そしてその結果、無限の発展の法則など あり得ないことがはっきりした。
また、無限の空間と時間の中で
万物は発展し、完全化し、高等化し、分化するなどと言ってみても
--- それはただ空言(そらごと=うそ)を弄(もてあそ)んでいるにすぎない
ということが はっきりした。
そんなものはみんな-- なんら意味を持たぬ言葉にすぎない。
なぜなら、無限の中には
複雑なものとか単純なものとか前とか後とか、
良いとか悪いとかいったものは ないのだから。