9-1 信仰が生きることを可能にしている

かくて生じた矛盾、その矛盾からのがれる道は二つだった。

私が合理的 と呼んだところのものが、
私が思ったほど合理的なものでなかったか

あるいは 私に非合理的と見えたところのものが、
私の思ったほど非合理的でなかったかということである。

そこで私は 自分の合理的見解に達した判断の過程の検討を始めた。

合理的見解の判断過程を検討して見て、

私はそれが 完全に正しいことを発見した。

人生が無に等しい という結論は 避け難いものであった。

でも私は 一つの誤謬(ごびゅう=まちがい)に気がついたのである。

その誤謬というのは、
私が、自分の提起した問題に呼応して物事を考えなかった ということだった。

問題はこうだった。
--なぜ私は生きるのか?即ち、私の幻影的な、
いつか滅び去る生から、どんな真実な 不滅なものが生ずるのか?
--この無限の世界における私の有限な存在に どんな意味があるのか?

この問題に答えるために 私は人生を研究し始めた。



ありとあらゆる人生上の諸問題の解決も、

明らかに 私を満足させ得なかった。

なぜなら 私の問題は、最初は大変簡単なようだけど、
実は有限なものを 無限なものによって、
あるいはその逆に説明せよ という要求を含んでいるからである。



私が問うたのは、

私の生の、
時間を超え因果律(=すべての事象は、必ずある原因によって起こり、
原因なしには何事も起こらないという原理)を超え、
空間を超えた意味は どんなものか?

と言うことだった。

ところが私が答えたのは、

私の生の、
時間と因果律と空間における意義如何?
如何(いかに=疑問をあらわして”どんなであろうか?”)

という問題に対してだった。
そこで長いこと苦しい思索を重ねた後で、
皆無! と答える始末だったのである。



自分の考察において私はいつも、

そうより外に 出来もしなかったが、

有限なものを有限なものと、無限なものを無限なものと比較対照した。

そこで私には ごく当然の結論が生じた。

即ち 力は力であり、物体は物体であり、意思は意思、
無限は無限、皆無は皆無、

-- それ以上の結論の生れようはずはなかった。



ちょうど数学で 方程式を解こうと思いながら、
恒等式を解いているといった場合に似たことが起きた。

思考過程は正しいのだが、
その結果得られる答えは、a は a に、あるいは X は X に、
あるいは0は 0 に等しいということである。

我が生の意味如何? 
という問題に関する私の考察にも、
それと同じことが生じた。

この問題に対して、全ての学問が与えるところの答えは、
ただ 恒等式に外ならなかったのだ。



また実際、厳格な学問的な知識、デカルトがやったように
あらゆるものを全面的に疑うことから始め、
あらゆる信仰に基づく知識を棄て去って、
全てを新しく 理性と経験の法則に基づいて打ち立てるところの知識は、

私が受け取った答え、
つまり未知数の答え以外のものを人生問題に対して与えることは出来ないのである。

私には ただ最初のうち、その知識が既知数的な答え、
つまりショーペンハウエルの
《人生に意味はなく、それは悪である》
という答えを与えたものと思われた。

でも真相を吟味して見て、私はこの答えが既知数でなく、

ただ私の感情が それをそう思わせたにすぎないことを悟った。

厳格に言い表わされたその答えというのは、

ちょうどブラーマン教徒やソロモンのような人や
ショーペンハウエルによって言い表わされているように、
ただ未知数的な答え、換言すれば に等しいという、

生は皆無である という恒等式にすぎなかった。

かくて哲学的学問は 何物も否定しないで、

ただこの問題は彼には解けず、
彼にとっては解決はいつまでも未知数のままだ と答えるだけである。



この事が分って私は、私の問題に対する答えを
合理的知識に求めてはいけないこと、

合理的な知識によって与えられる答えはただ、

解答は問題の立て方を変えた時に、
ただ考察の中に有限なものの無限なものへの関係
という問題が取り入れられた時に与えられるということを示すだけだ
ということを理解した。

私はまた、信仰によって与えられるという解答が
いかに非合理的でまた奇怪であっても、
それは答えの中に、
それなしでは答えが不可能なところの、
有限の無限に対する関係を導入するという長所があることも理解した。



どんな風な問題の立て方をしても、

例えば、私は如何に生くべきか?なら
-- 答え、神の掟(おきて)に従って。

私の生からどんな真実なものが生れるか?なら
-- 無限なる神との合一、天国

といった工合(ぐあい)である。



そこで私が唯一のものと思っていた合理的知識以外に、

今生きている全ての人類には、

更に他の超合理的な認識、つまり 信仰というものがあって、

それが 生きることを可能にしているということを、

否応(いやおう)なしに認めさせられたのである。



信仰の あらゆる非合理性は、私にとって以前と変りはなかったけれど、

私はそれだけが人類に 人生問題への解答を、

したがってまた生きる可能性を与えているということを認めぬわけにゆかなかった。