幼年時代以来、私に吹き込まれた信仰教条は、
ほかの人達の場合と同様に 消え失せたのであるが、
ただその差は、私は15の年から哲学的著作を読み始めたので、
私の信仰離脱は非常に早く、意識的なものとなったということである。
私は 16の年からお祈りをやめたし、
自発的に教会へ行ったり 精進したりするのをやめた。
私は 幼年時代から吹き込まれたものを信じなかったのだけれど、
それでも 何かを信じていた。
何を信じているのか と問われても、どうにも答えられなかったにちがいない。
私は やはり 神を信じていた、
と言わんよりは 神を否定しなかった。
でも どんな神か ということは 答えられなかったであろう。
私は キリスト 及び 彼の考えを否定しなかったのだが、
でも その教えの真髄(しんずい=そのものの本質)は 何か、
ということも やっぱり答えられなかったと思う。
今、当時を思い起こせば、私の信仰-- つまり、動物的本能以外に
私の生活を動かしたところのもの--- 唯一つの真実な私の信仰は、
自己完成への信仰であったことが はっきりわかる。
しかし どんな完成かということ、また その完成の目的は
どんなものかということは 答えられなかったであろう。
私は 知的自己完成に努力した。
--- 学べるだけのこと、そして 生活が私に直面させた事柄について、
何もかもを学んで行った。
私は 自分の意思を完成しようと努力した。
そこで 自分に規律を課して、それに従うよう努めた。
あるいは あらゆる鍛錬(たんれん)でもって 力と業(わざ)の増進を試み、
あらゆる困苦欠乏を通じて 忍耐と我慢を養成しながら、
肉体的完成を試みた。
そして こうしたことをみんな私は 自己完成だと考えたのである。
全ての発端は 勿論 徳性上の自己完成だったのだけれど、
間もなくそれは 一般的自己完成に、
つまり 自分自身あるいは 神の前によくありたい という願いでなく、
他人の前に そうありたい という願いにすり換えられてしまった。
そして更にこの、 他人の前に よりよくありたい という願いは、
たちまちのうちに
他人より 強者になりたい、
つまり、
名声も地位も富も 他人に立ち勝りたい という願いに置きかえられて行ったのである。