人生問題の解答を探し求めながら、
まるで私は 森林の中に迷った人が味(あじわ)うような、そんな感じを経験した。
森の中の空地(あきち)に出て、木によじ登って、
そこからはっきりと無限の広がりを見る。
でも その方面には人家は無く、
またある筈もないことを見てとる。
そこで彼は 森の茂みに、暗闇の中にわけ入って、
そこはやっぱり暗闇で、家なんかとてもありはしないことが分る。
☆
こんな風に私は 世俗的学問の森林の中で、
私に明るい地平線をひらいてくれた、然しその方面には
人家はあり得ない といった風の、数学的・経験科学的学問の光と、
進めば進むほど ますます暗さを増して、とうとう出口はないし、
また あるはずがないと確信するまでになった思弁的学問の闇に挟(はさ)まって
迷ったのである。
☆
学問の明晰な側面に没頭してみて、
私はそれが問題に眼をつむる所以(ゆえん=理由)であることを悟った。
私の視界にひらける地平線が どんなに魅惑的で明るくっても、
この果(はて)しない学問の海に浸ることに どんなに魅力を覚えても、
私にはも早や、これらもろもろの学問は、
それが明晰なものであればあるだけ 私にとって無用であり、
私の疑問に答えてくれない ということが分ったのである。
☆
科学がこうも躍起になって知ろうと望んでいることは、みんな私には分っている。
--と、こう私は自分に言うのだった。
--でもこの方面には、私の生の意義如何の問いに答える解答がないではないか。
一方 思弁的学問の領域では、その学問の目的が
直接私の疑問への解答に向けられているにもかかわらず、
あるいは 向けられているからこそ、
私が自分に与えた解答、
つまり 《私の生にはどんな意味があるか?-- どんな意味もない》
あるいはまた
《私の生から何が生ずるか?-- 何にも生じない》
更にはまた、
《全ての存在するものは、何のために存在するのか?
--またこの私は何のために存在するのか?--存在するから存在するのだ》
といった類(たぐい)のもの以外には、何らの解答もないことを悟った。
☆
世俗的学問の一方の側に問えば、
私がたずねもしない無数の事についての 精密な答えが返って来た。
即ち 星の化学的成分とか、ヘラクレス星座に向っての太陽の運行とか、
種及び人類の起源とか、エーテルの無限小の、
量ることも出来ない分子の形態とかいったものである。
でも 《私の生存の意味は何か?》という私の問いに対する、
この学問の領域での答えはただ一つ
---お前はお前が自分の生命と呼ぶところのその者である。
お前は 一時的の、偶然な微粒子の結合にすぎない、ということなのだ。
これらの微粒子の相互作用と変化が、
お前の中にお 前が生命と呼ぶところのものを生ぜしめる。
この結合は 一定の時間持続するが、その後 その相互作用は止んで、
同時にお前が生命と呼ぶものも止み、もろもろのお前の疑問も消えてなくなる。
お前は---偶然肉体の形をとった何かの固形物にすぎない。
この固形物は ぶつぶつと泡を立てる。
この泡立ちを自分の生命と呼ぶのである。
が、やがてこの固形物も分解し、泡立ちも全ての疑問も消失するのだ。
世俗的学問の明晰な実証的な側面は 以上のように答えるだけで、
正確に自分の原則に従う限り、それ以外の答えをすることは出来ない。
☆
こうした答えでは、問題に対する答えにならないことが分る。
私には 自分の生存の意義を知る必要があるのに、
それが無限なるものの一部であるなどというのは、
それが私の生存の意義を与えないどころか、
あらゆる可能な意義を 踏みにじってしまうのだ。
☆
こうした経験的実証的な学問が、思弁的なそれとこね合わされて、
生存の意義は 人類の発展と、その発展への協力にあるなどと言い出しても、
そんな不正確な曖昧なものを解答と認める訳には行かない。