11-1 私の生活--肉欲奉仕の生活--は悪であり無意味であった

そこで私は、それらの信仰が、

その信仰に反した生活をしている人達から説かれる時には反撥を感じ、
またナンセンスであると思われ、

一方 まさに同じその信仰が、
人々がその信仰によって生活をしているのを見た時は 私を惹きつけ、

また合理的なものに思われるという事を思い出して、
---なぜ私があの頃 これらの信仰を放棄し、またなぜ無意味なものと感じたか、
そして今では それを受け容れ、また意味深いものと感じているのかが分った。

私は 自分が迷っていた事、そしてまた なぜ迷うに至ったかが分った。

私は 自分が正しくない考え方をしたから迷った というよりも、

私の生活がいけなかったから迷ったのであった。

私は 自分の思想の迷いが、私に真理を蔽(おお)いかくしていたというよりも、

私が過していた あの例外的条件下の、快楽主義的な、

肉欲充足に向けられた生活そのものが そうしていたということが分った。



私は、我が生とは何か? との問いに対して、

答えは、悪! というのは 全く正しいことが分った。

正しくないのはただ、自分だけにあてはまる答えを、

私は みんなの生活にあてはめていた事だった。

私は 自(みずか)ら 我が生とは何か? を問い、

悪であり ナンセンスである という答えを得た。

そして実際、私の生活---肉欲奉仕の生活---は

ナンセンスであり 悪であったし、

それ故 《生は悪であり無意味である》 という答えは、

私の生活については言えるけれども、

人類一般の生活について言えることではなかった。



私は後で 自分が福音書の中で発見した
《人々光よりも多く暗を愛せり、彼等の行ないの悪かりし故なり》という真理を悟った。

《蓋凡そ不善を作す者は光を悪みて、光に就かず、
彼の行の尊められざらん為なり》(註、ヨハネ第三章)

私は、生の意味を悟るために、まず第一に 
その生が 無意味であったり、悪であったりしないこと、

そしてその後で、
その意味を理解するための理性が必要であることを悟った。



私には なぜ自分がそんなに永い間、

こんなに明白な真理のまわりを うろうろしていたかということや、

人類の生活について考えたりしゃべったりするのなら、

飽くまで 人類の生活についてそうすべきで、

少数の 生の寄生蟲(きせいちゅう)について 
そうすべきでない ということがわかった。




この真理は、2*2が4であるように、

いつも変らぬ心理だった。

でも 私はそれを認めなかった。

なぜなら 2*2は4を認めると、

どうでも私は、自分がよくない人間であることを認めねばならなかったからである。

私にとって 自分がよい人間であると感ずることは、

2*2は4を認めることより大事で 必要なことだったのだ。



ところで私が善良な人々が好きになるや、

自分がいやになり、

そして 私は 真理を認めるようになった。

今では 何もかも 私にはっきりして来たのである。