神は 私の探求、絶望、あがきを知り、かつ 観(み)ている。
《神は存在するのだ》 と私は自分に言った。
そして そのことを一瞬 認めさえすれば、
ただちに 私の身内に生命力が高まり、
生存の可能と歓喜を感ずるのだった。
然(しか)し私は 再び 神の存在の承認から
神との関係の探索に移行し、そして再びあの神が、
子なる救世主を地上に遺(のこ)した三位一体(さんみいったい)の神の姿が現れる。
そして再び この世界から、私から隔絶(かくぜつ)した神は、
氷塊(ひょうかい)のように 私の面前で溶け去り、
再びなんにも残らなくなり、
再び生命の泉が涸(か)れるのだった。
そこで私は絶望に陥(おちい)り、
自殺する以外 何もすることがない と感ずるのだった。
しかも 何よりもいけないのは、その自殺するということすら
私には 何も出来ないということを感じたことだったのである。
☆
二度や三度でなく、何十回何百回と 私はこうした状態、
喜びと生気につづく絶望と生存不可能の意識の繰り返し といった状態に陥った。
☆
忘れもしない、それは早春のことであったが、
私は一人 林の中にあって、
その林の中の 種々の物音に 耳を傾けていた。
私は 耳を傾けながら、
この三年間 絶えず常に ただ一つのことを考えて来たように、
ただ一つのことを考えていた。
私は 再び神を探していたのだ。
☆
《よろしい、神などというものは 存在しない---と私は自分に言うのだった
---私の単なる表象(イメージ)でなくて、私の全生活のような実在としての神、
といったものは 存在しない。そして何者も、いかなる奇蹟も、
そのようなものの存在を証明することは出来ない。
なぜなら 奇蹟も私の表象であり、のみならず不合理な表象ですらあるのだから。》
《然しながら私のこの神の観念は?---と私は自問した。
---この観念は どこから生じたのか?》 そしてこの事を考えるや、
再び私の内部に喜ばしい生の波動が高まったのである。
私の周囲のものが 何もかも活気を帯び、意味を持ち始めた。
それでも 私の喜びは永くつづかなかった。
やっぱり 理智が活動をつづけたのだった。
《神の観念は---神ではない》と私は自分に言った。
---《観念というものは 私の心中に生ずるもの、
神の観念は、私が自分の心中に喚起(かんき=呼び起こす)することも
しないことも出来るところのものなのだ。
それは 私が探し求めているものではない。
私は、それなしでは生きて行くことが出来ないもの、
そんなものを探しているのだ。》
そして再び私の周囲のものや、私の内部のものが、
何もかも滅び始め、再び私は 自殺を想うのだった。
☆
然し その時私は 自分自身をふりかえり、
自分の中に生ずるところのものをふりかえり、
そしてこの何百回となく私の中に生じた
滅びと蘇(よみがえ)りのくりかえしを思い起こした。
私は 自分がただ、神を信じている間だけ 生きていたことを思い起こした。
昔そうであったように 今も、神を認めさえすれば私は生き、
神を忘れ、神を信じなくなった瞬間に 私は死んだといってよかった。
☆
この蘇生(そせい)感と 死滅感は 一体 何を意味するのだろう?
私は 神の存在への信仰を失うや、生きていないも同然だった。
もしも私に 神を見出すという、
はっきりしないけれど ある期待がなかったら、
とっくに 自殺していたにちがいない。
私は神を感じ、神を求める時、そんな時だけ生きる、
まぎれもなく生きるではないか!
では一体 私は外(ほか)に何を求めているのか?
---と私の内部の声が叫んだ。
---そら、これが神だ。
神とは、それなしには生きて行けないところの そのものなのだ。
神を認めることと生きること、
---それは 同義語である。
神は 生命である。
☆
神を探し求めつつ生きよ。
さすれば 神のない生活の生ずる いわれ(=理由)はない。
かくて 私の内部 及び周辺において、
全(すべ)てが 未(いま)だかつてなかったほど明るく輝き、
そしてその光は もう決して私を離れなかった。
----- こうして 私は自殺からまぬがれた。