7-3 どこかで私は間違った

生は無意味な悪である ということは疑う余地がない--と私は自分に言った。

それでも 私は生きて来たし、今も生きている。

そして全人類もまた生きて来たし、生きつつある。

一体どうした訳であろうか?

生きることが止められるのに、どうして人類は生きて行くのだろう?

私一人が ショーペンハウエルのように賢くて、
生の無意味と悪とを悟った とでもいうのか?



人生の空しさについての判断は 別にそうややこしい事でもなく、

昔から最も素朴な人達すらやって来たことだが、

それでも彼らは生きて来たし、生きている。

どうしてまた彼らは みんなひたすら生き、

生の合理性を いささかも疑おうとしないのだろうか?



賢者達の智慧によって裏付けされた私の知識は、
私に世界の万物--有機物も無機物も--はみんなすごく巧妙に出来ているのだが、
ただ 私のいる立場だけが愚劣だということを示した。

ところがこれらの愚者達--莫大な数の一般大衆--は、
世界における有機物や無機物が どんな具合に構成されているかなど
何も知らないけれど、やっぱり生きており、
そして彼らの生が 大変合理的に出来上っているように思っているのだ。



そこで 次のような考えが頭に浮かぶ。

--どうも私は まだ何か知り損ねているのではないか?

無知という奴は、まさに こういう ていたらくなのだ。

無知というものは、いつもそういう言い方をする。

自分が何か知らないものがあれば、
無知はその自分の知らないもののことを愚劣だなどと言う。

実際の話が次のようになる。

つまり、全体としての人類は これ迄生きて来たし、また生きつつあるのだが、
どうも自分の生の意義を理解しているふしがある。
なぜなら それを理解しないでは これまで生きて来れなかったろうから。

ところが私は、こんな生は みんなナンセンスであって、
生きてなんか行けないというのだ。



誰も我々に、自殺によって生を否定することを邪魔立てしない。

自殺をすれば--くどくど考えなくともいい。

生きていて生の意味が理解出来ないなら、それを絶てばいいので、

自分が生を理解出来ないということをしゃべったり書いたりして、

この世にうろうろするのは よしたがいい。

お前は 愉快な仲間の所へやって来る。

その人達は みんな大変楽しくやっていて、

自分で自分のやることは ちゃんと分っている。

ところがお前には それが退屈で不快だというのなら、
その場から 立ち去ればいいのだ。



実際のところ、自殺の不可避性を確信していながら、

それを果す決心もつかぬ我々は、最も優柔な、支離滅裂な、

あっさり言えば、馬鹿が絵に描いた袋を持ち歩くように

自分の愚劣さを抱えまわる愚人でなくて 何であろう。



我々の賢さは、それがどんなに疑う余地のないものでも、

我々の生の意味についての認識を 我々に与えなかったではないか。

ところが 現に生を続けつつある全人類、幾百万の人間は、

生の意味について 疑おうとしないのだ。



実際また、私がそれについて 若干知るところのある、人間の生活というものが

凡(およ)そ存在した遙(はる)かな遙かな往昔(おうせき=遠い昔)以来、

人々は私に 生の無意味さを示したところの
生の空しさに関する判断を知りながら生きて来たので、、
それでもやっぱり 何かの意味を生に附与して来たのだ。



およそ何らかの人間の生が始まって以来、

彼らには この生の意味が存在した。

そしてその生を続けて、この私の生きる現在にまで至っているのだ。

私の中に また私の周囲にあるものは全て、
--肉体的なものも非肉体的なものも何もかも--彼らの人生の智慧の所産である。

私がそれでもって生を考察し また譴責(けんせき=厳しくとがめる)するところの
思索の手段そのものが、みんな私でなく 彼らによってつくられたものなのだ。

私自身が 彼らのおかげで生れ、育まれ、成長してきたのだ。

彼らは鉄を採掘し、木材の伐採法を教え、牛馬を飼い馴らし、
種を蒔くことを教え、我々の生活を整えて来た。

彼らは私に考えたり話したりすることを教えた。

而(しか)もその私--彼らの所産であり、彼らに養い育てられ、
彼らによって学ばされ、彼らの思想と言語で思索するこの私--が彼らに、

彼らの生存の無意味さを証明したのだ。

《どうも少し変だ--と私は自分に言うのだった。--とこかで私は間違ったなぁ。》

でも その間違いがどこにあるのか、どうにも私は発見出来なかった。