第三の脱路は 力とエネルギーのそれである。
それは 生が悪でありナンセンスであることを知って、
それを絶滅させることの中にある。
力強い、首尾一貫した性格の人々が 稀(まれ)にそうした行為に出る。
我々の上に仕組まれたメロドラマの馬鹿々々しさが すっかり分り、
彼らはそうした行為に出て、一挙に愚劣な芝居を しまいにする。
幸い 手段は色々ある。
首にはめるロープの輪差(わさ=ひもを結んで輪にしたもの)、水、
胸に突き立てるナイフ、線路を走る列車、等々である。
実際 我々仲間の人達で、こうした行為に出る者が絶えず増大している現状である。
しかも そうした行為に出る人達は、
多くの場合 人生の最もよき時代、精神力がまさに満開の、
人間の理性を貶(おとし)める俗習が あまり身にしまぬ時代においてである。
私は これが最も品位ある脱路であると思い、そういう風にやりたいと思った。
☆
第四の脱路は 優柔不断のそれである。
それは 人生の悪と無意味さを悟っていて、
所詮 なんにも始まらぬと前もって分っていながら、
やはり荏苒(じんぜん=歳月が移り行くままに、何もしないで)日を送ることの中にある。
この種の人達は 死が生よりましであることを知っていながら、
それでもさっさと欺瞞と裾(すそ)を分って自殺するという、
筋の通った行為に出る力がなく、
何か物待ち顔に生きて行く。
これが 優柔不断の脱路である。
というのは、もし私が よりましなものを知っていれば、
そしてそれが私の手にとどくとすれば、
どうしてそれに身を委ねないのか?
--- 私はこうした種類のうちの一人だった。
☆
こういう風に 我々仲間の人達は、
四つのやり方で 恐るべき矛盾から身をのがれている。
どんなに自分の精神的注意力をはりつめても、
この四つの脱路以外には 私は何も見ることが出来なかった。
☆
一つの脱路は、
生が無意味であり空であり悪であり、
寧(むし)ろ 生きない方がましであるということを悟らぬ というやり方である。
私はそれを知らずにいることは出来なかったし、
一度知ったら それに眼を瞑(つむ)ることも出来なかった。
もう一つの脱路は、
未来のことを考えずに、現在あるがままの生を享楽することだった。
これも私にはやれなかった。
私も釈迦牟尼(しゃかむに)のように、
老と苦と死とが厳存(げんそん=確実に存在)することを知った以上、
猟などに出かけたり出来なかった。
そのためには あまりにも私の想像は 生々しすぎた。
それにまた私は、
一瞬 私に享楽を恵んでくれる 束の間の偶然を喜ぶことが出来なかった。
第三の脱路は、
生が悪であり愚劣であることを悟って それを停止する、
つまり 自殺することだった。
私はそれがよくのみ込めたのだが、
なぜだか依然として自殺しなかった。
四番目の脱路は、
ソロモンやショーペンハウエルのような状態で生きること、
つまり、生が愚劣な、私の上に仕組まれたメロドラマであると知りながら、
それでも生きて 顔を洗ったり、着物を着たり、食事をしたり、
しゃべったり、本まで書いたりすることである。
これは 私にとって不快でもあり 苦しくもあったが、
やっぱり こうした状態にとどまっていたのである。
☆
今思えば 私が自殺しなかった原因は、
私におぼろげながら
自分の思考の誤りを感ずる意識があったことだ ということがわかる。
我々に 生の無意味を認めさせるに至った、私や賢者達の思考の道筋が、
どんなに確実で疑いのないものに見えるにしても、
やはり私には 自分の判断の真実性に対する
おぼろげな疑念が残っていた。
☆
その疑念 というのはこうだった。
私、即(すなわ)ち私の理性が 生の不合理性を認めた。
もしも より高い理性が存在しないなら
(そんなものは存在しないし、その存在を証明し得る何者もない)
この理性が 私にとっての生の創造者である。
理性がなければ、私にとって生もまた無いであろう。
自分自身が 生の創造者でありながら、
この理性はどうして生を否定するのであるか?
あるいは他面から言えば、
もしも生がなければ 私の理性もないであろう。
つまり 理性は生の子供である。
生こそ全(すべ)てである。
理性は 生の果実であるのに、
その理性が 生そのものを否定する。
どうもそこのところが少しおかしい、と私は感じたのだった。