7-2 自殺しなかった原因

第三の脱路は 力とエネルギーのそれである。

それは 生が悪でありナンセンスであることを知って、

それを絶滅させることの中にある。

力強い、首尾一貫した性格の人々が 稀(まれ)にそうした行為に出る。

我々の上に仕組まれたメロドラマの馬鹿々々しさが すっかり分り、

彼らはそうした行為に出て、一挙に愚劣な芝居を しまいにする。

幸い 手段は色々ある。

首にはめるロープの輪差(わさ=ひもを結んで輪にしたもの)、水、
胸に突き立てるナイフ、線路を走る列車、等々である。

実際 我々仲間の人達で、こうした行為に出る者が絶えず増大している現状である。

しかも そうした行為に出る人達は、

多くの場合 人生の最もよき時代、精神力がまさに満開の、
人間の理性を貶(おとし)める俗習が あまり身にしまぬ時代においてである。

私は これが最も品位ある脱路であると思い、そういう風にやりたいと思った。



第四の脱路は 優柔不断のそれである。

それは 人生の悪と無意味さを悟っていて、

所詮 なんにも始まらぬと前もって分っていながら、

やはり荏苒(じんぜん=歳月が移り行くままに、何もしないで)日を送ることの中にある。

この種の人達は 死が生よりましであることを知っていながら、

それでもさっさと欺瞞と裾(すそ)を分って自殺するという、
筋の通った行為に出る力がなく、
何か物待ち顔に生きて行く。

これが 優柔不断の脱路である。

というのは、もし私が よりましなものを知っていれば、

そしてそれが私の手にとどくとすれば、

どうしてそれに身を委ねないのか?

--- 私はこうした種類のうちの一人だった。



こういう風に 我々仲間の人達は、
四つのやり方で 恐るべき矛盾から身をのがれている。

どんなに自分の精神的注意力をはりつめても、

この四つの脱路以外には 私は何も見ることが出来なかった。



一つの脱路は、

生が無意味であり空であり悪であり、
寧(むし)ろ 生きない方がましであるということを悟らぬ というやり方である。

私はそれを知らずにいることは出来なかったし、
一度知ったら それに眼を瞑(つむ)ることも出来なかった。

もう一つの脱路は、

未来のことを考えずに、現在あるがままの生を享楽することだった。
これも私にはやれなかった。

私も釈迦牟尼(しゃかむに)のように、
老と苦と死とが厳存(げんそん=確実に存在)することを知った以上、
猟などに出かけたり出来なかった。

そのためには あまりにも私の想像は 生々しすぎた。

それにまた私は、
一瞬 私に享楽を恵んでくれる 束の間の偶然を喜ぶことが出来なかった。

第三の脱路は、

生が悪であり愚劣であることを悟って それを停止する、
つまり 自殺することだった。

私はそれがよくのみ込めたのだが、

なぜだか依然として自殺しなかった。

四番目の脱路は、

ソロモンやショーペンハウエルのような状態で生きること、
つまり、生が愚劣な、私の上に仕組まれたメロドラマであると知りながら、
それでも生きて 顔を洗ったり、着物を着たり、食事をしたり、
しゃべったり、本まで書いたりすることである。

これは 私にとって不快でもあり 苦しくもあったが、

やっぱり こうした状態にとどまっていたのである。



今思えば 私が自殺しなかった原因は、

私におぼろげながら 
自分の思考の誤りを感ずる意識があったことだ ということがわかる。

我々に 生の無意味を認めさせるに至った、私や賢者達の思考の道筋が、

どんなに確実で疑いのないものに見えるにしても、

やはり私には 自分の判断の真実性に対する
おぼろげな疑念が残っていた。



その疑念 というのはこうだった。

私、即(すなわ)ち私の理性が 生の不合理性を認めた。

もしも より高い理性が存在しないなら
(そんなものは存在しないし、その存在を証明し得る何者もない)

この理性が 私にとっての生の創造者である。

理性がなければ、私にとって生もまた無いであろう。

自分自身が 生の創造者でありながら、

この理性はどうして生を否定するのであるか?

あるいは他面から言えば、

もしも生がなければ 私の理性もないであろう。

つまり 理性は生の子供である。

生こそ全(すべ)てである。

理性は 生の果実であるのに、

その理性が 生そのものを否定する。

どうもそこのところが少しおかしい、と私は感じたのだった。