当時私には、生きて行くためには どうでも信仰することが必要だったので、
無意識に 信仰教条の中の、いろんな矛盾や曖昧さに眼を瞑(つむ)っていた。
然(しか)し、儀式に何とか意義をこじつけることにも限度があった。
よしエクテニヤ(註、正教会で行う祈禱(きとう)の一部)の中の
重大な言葉がだんだん私にはっきりしてくるとしても、
よし私が《我等の聖なる生神女マリヤ及びことごとくの諸聖人を記憶し、
我等互に、各々の身を以て、又ことごとくの我等の生命を以て、
ハリストス(=ギリシャ)我が神に託せん》
という言葉をどうにか自分に説明するとしても、
--よし私が 皇帝及びその一族についての祈りの頻繁な繰返しを、
彼らは他の人々に比して より多く誘惑にさらされているから、
より多くの祈りが必要だということで説明するとしても、
また仇(あだ)や敵(かたき)を足下に踏みしだかせ給えという祈りを、
仇とは悪のことだということで説明するとしても、
これらの祈りやその他 たとえばヘルウィムの讃歌(さんか)とか、
全(すべ)ての祈禱奉献の秘儀、あるいは《天軍の師云々》等々、
ほとんど全勤行の三分の二が、
全然説明しようがないか、
またはそれに説明をあてがおうとすれば 嘘をつくことになり、
自分の神との関係を すっかり破壊し、
信仰の可能性が失われるであろうことを感じた。
☆
正教会の主要な祝祭日の祭典においても、私は同様な経験をした。
安息日を記憶すること、即(すなわ)ち
一日を神に想いをひそめることに献(ささ)げることは、私も納得出来た。
でも主要な祝祭日は、
現実性を私が想像も理解出来ないところの復活という出来事を記念する日だった。
そして 週ごとの休日が この復活(=ウォスクレセーニェ)という名で呼ばれている。
註、ウォスクレセーニェはまた 日曜の意あり
そしてこれらの日に、
私にはまるでもう不可解な聖餐(せいさん)の秘儀が取り行われるのだった。
☆
クリスマスを除いた外の12の祝祭日は 全て、
それを否定しないで済むように 私が努めて考えまいとした、
いろんな奇蹟を記念する日だった。
昇天祭、五旬節、主顕節、聖母祭等々がそれだった。
これらの祝祭日の祭典に際し、
私にとっては反対に まるで何でもないような事が、
大変重要視されているのを感じて、
私は自分の心を和らげる説明を いろいろ考えるか、
あるいは 自分の心を乱すものを見ないように 眼をとじるかした。