もう一つの思弁的学問の側では、
もしそれが自己の原理に忠実であれば、
その疑問に対して 直接答える場合、
いかなる場所 いかなる時でも ただ一つしか答えられないし、
また そう答えて来た。
それは、世界は無限の、理解を超えた何者かである ということである。
人間の生命は、この捕捉し難い部分である という訳なのだ。
ここでも私は 思弁的学問と経験科学との混合物、
いわゆる法律的、政治的、歴史的といった、
擬似学問のがらくたをでっち上げているものを除外して考えることにする。
これらの擬似学問では、又ぞろ進化とか、完成とかの観念が不正に導入されている。
ただ区別すれば 前の場合は森羅万象の進化発展、
この場合は 人間の生命のそれというだけである。
然し両者とも、不当なことはなんら変りない。
無限の中の進化とか 完成とかには、何らの目標も方向もあり得ないし、
私の疑問に対しては 何も答えてくれないのである。
☆
思弁的学問が正確であるところ、つまり真正の哲学においては、
---ショーペンハウエルがプロフェッサーの哲学と呼んだ、
あの、全ての眼前の現象を 新しい哲学的分類法で分類して、
それを新しい名称で呼ぶことだけにしか役立たぬものでなく、
---哲学が本質的な問題から眼を離さぬところでは、
常に答えは ただ一つ、ソクラテス、ショーペンハウエル、ソロモン、仏陀によって
与えられたところの答えに外ならない。
《我々は 生から遠ざかれば遠ざかるだけ、それだけ真理に近づく》
--とソクラテスは死に臨(のぞ)んで言う。
《真理を愛する我々は、人生において何を目指すか?肉体と、
そして肉体生活から生ずる全ての悪から解放されることではないか。
若(も)しそうなら、死が我々の所にやって来た時、
どうして喜ばずにいられよう?》
《賢者は生涯 己れの死を探し求める。それ故 死は、
彼にとって 恐怖ではないのである。》
☆
次に ショーペンハウエルは言う。
《世界の肉的本質を意思として、また自然の暗黒な力の無意識的衝動から、
意識に充ちた人間の活動に至るあらゆる現象の中にあるものと認識するならば、
この意思だけが実在であると認めるならば、我々は どうしても意思の自由な否定、
意思の自己否定と共に すべてのそれらの現象、その中に、
そしてそれによって世界が成立するところの、実在の各段階における目的も休息も
なき絶えざる突進や衝動も消失し、系列的諸形式の種々相も消失し、
その形と共に、それを包摂する普遍形式としての、空間と時間における諸現象も消失し、
遂にはその根源的形式、
つまり主体と客体も消失するという結論を避けることは出来ないであろう。
意思がなければ表象もなく、したがって世界も存在しない。
我々の前には 勿論 虚無のみが残る。
然しこの虚無への移行を受容しようとしないもの、つまり我々の中の自然こそ、
我々自身と我々の世界をつくっているところの、”生きんとする意志”》
に外ならない。
我々がかくも虚無を恐れるということ、換言すれば かくも生きんと欲することは、
我々自身が生きんとする欲望そのものであり、
それ以外のことは 何も分らないといった、まさにそういう意味なのである。
それ故 まだ色々の意思で充(みた)されている我我にとって、
意思が完全に絶滅した暁(あかつき)に残るものは、
言うまでもなく 虚無である。
然し反対に、その人の中で意思に変化を生じ、
意思が自らを棄却したような人々にとっては、
この我ら、太陽や銀河を持つ、かくもリアルな世界も虚無にひとしいのである。》
☆
『空の空』とソロモンは言う。
『空の空なる哉(なり)--凡(すべ)て空なり!日の下に人の労して為すところの
諸々の動作(はたらき)はその身に何の益かあらん。世は去り世は来る、
地は永久(とこしえ)に存(たも)つなり...。さきにありし者はまた後にあるべし。
さきに成りし事はまた後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。
「見よ、是は新しき者なり」と指して言うべき者あるや。それは吾らの前(さき)に
ありし世々に既に久しく在りたるものなり。
巳前(まえ)のものの事はこれを憶(おぼ)ゆることなし。以後(のち)のものの事も
また後に出ずる者 これを憶ゆることあらじ。われ伝道者は、イエルサレムにありて
イスラエルの王たりき。我が心を尽し知恵を用いて、天が下に行わるる諸々のことを
尋ね且つしらべたり。此の苦しき労作(わざ)は、神が世の人に授けて
これに身を労せしめ給うものなり。われ日の下に為さるる諸々の行為(わざ)を見たり。
あゝ、みな空にして風を捕うるが如し... われ心の中に語り言う。
あゝ我は大いなる者となれり、我より先にイエルサレムに居りし凡ての者よりも
我は多くの智慧を得たり。 吾が心は智慧と知識との多くを得たり。
われ心を尽して智慧を知らんとし、狂妄と愚痴とを知らんとしたりしたが、
これも又 風を捕うるが如くなるを暁(さと)れり。それ智慧多ければ悲痛(かなしみ)多し。
知識を増す者は憂患(うれい)を増す。
☆
われ我が心に言いけらく、来れ、われ試みに汝を喜ばせんとす。
汝逸楽を極めよと。--あゝされど、これもまた空なりき。
われ笑に就いて言う。これ愚なり。快楽について言う、これ何のなすところあらんや?と。
われ心に智慧を懐きて居りつつも、酒をもってわが肉身を肥やさんと試みたり。
また世の人は 天が下において、生涯如何なる事を為さばよからんかを知らんが為に、
われは愚かなるわざを行うことをなせり。我は大なる事業を為せり。
我は我が為に家を建て、葡萄園を設け、園を作り、庭を作り、
また果実のなる諸々の樹を其処に植え、また水の溜池を作りて、
樹樹の生い繁(しげ)れる林にそれより水を灌(そそ)がしめたり。
我は僕婢(=下男と下女。召使い)を買い得たり。
また家の子あり。我はまた凡て我より前(さき)にイエルサレムに居りし者よりも
衆多(おおく)の牛羊を持てり。
我は金銀を積み、王等(おうたち)と国々の財宝(たから)を積み上げたり。
また歌うたう男女を得、世の人の楽(たのしみ)なる妻妾を多く得たり。
斯(か)く我は大なる者となり、
われより先きにイエルサレムに居りし凡ての人よりも 富裕になりぬ。
我が智慧も亦(また)わが身を離れざりき。
---我はわが手にて為したる諸々の事業(わざ)
及び我が労して事を為したる労苦を顧(かえりみ)るに、みな空にして
風をとらうるが如くなりき。
日の下には益となるものあらざるなり。
我また身を転じて智慧と狂妄と愚痴とを観たり。---
われ知る、凡てのものの遇(あ)うところは同一なり。
我わが心に言いけらく、愚者のあうところの事に我もまたあうべければ、
われ何ぞ智慧のまさるところあらんや。われまた心に言えり、これも亦(また)
空なるのみと。 それ智者も愚者とひとしく、永く世に記憶さるることなし。
来らん世にいたれば、皆早く既に忘らるるなり。
あゝ! 智者の愚者と同じく死ぬるはこれ如何なる事ぞや。
ここにおいてわれ世に存(ながら)うる事を厭(いと)えり。
凡そ日の下に為すところの事業(わざ)は、われに悪しく見ゆればなり。
即ちみな空にして風をとらうるが如し。
我は日の下にわが労して諸々の動作(はたらき)を為したるを恨む。
それは我の後をつぐ人にこれを残さざるを得ざればなり。
---それ人は、日の下に労して為すところの諸々の動作と
その心労(こころづかい)によりて、何の得るところあるや?
その世にある日には 常に憂患(うれい)あり、その労苦は苦し。
その心は夜の間も安んずることあらず。
これまた空なり。 人が飲食(のみくい)を為しその労苦(ほねおり)によりて
心を楽しましむるは幸福なる事にあらず、これも亦(また) 神の手より出ずるなり。
われこれを見る。---』
『凡ての人に臨(のぞ)むところは皆同じ。義しき者にも悪しき者にも、
善き者にも来よき浄(きよ)き者にも穢(けが)れたる者にも、
犠牲(いけにえ)を献(ささ)ぐる者にも、犠牲を献(ささ)げぬ者にも、
その臨むところの事は同一(ひとつ)なり。善き人も罪人に異ならず。
誓を為す者も誓を為すことを畏(おそ)るる者に異ならず。
凡ての人に臨むところの事の同一(ひとつ)なるは、
それ日の下に行わるる事の中の悪しき者たり。
そもそも人の心には悪しきもの充ちており、その生ける間は心に狂妄を懐(いだ)き、
かくて後 死者の中に往(い)くなり。』
『凡そ活ける者の中に列(つらな)る者には望みあり。
そは生ける人は 死せる獅子にまさればなり。
生者(いけるもの)は その死なんことを知る。
されど死せる者は 何事をもまた知らず、酬(むくい)を受くることも重ねてあらず、
その憶えらるる事も 終に忘らるるに至る。
その愛(いつくしみ)も憎しみも嫉(ねた)みも既に消え失せて、
彼らは日の下に行わるる事に最早何時の世までもかかずらうことあらざるなり。』
こうソロモンは、あるいは この言葉を書いた人は言っている。