2-2 虚栄と物欲と思い上がり

その頃私は、虚栄と物欲と 思い上がりから 著作を始めた。

私は自分の著作においても、生活におけると同じことをやった。

私がそのためにこそ書いたところの 名誉と金とを得るためには、
善きものを蔽(おお)いかくして、
悪(あ)しきものを露呈(ろてい)せねばならなかった。

そこで 私はそうしたのである。

何度私は、自分の著作の中で、
実は私の生活の意義を構成しているところの善への渇望(かつぼう)を、
無関心を装ったり、
あるいは 軽く嘲笑(ちょうしょう)を浴びせたりしながら、
うまくかくそうと 企(たくら)んだことであろう。

そして私は まんまとそれを仕遂げ、

みんなが私を 賞(ほ)めそやしたわけである。



26歳の時、戦争が済んでから、私はペテルブルグに乗り込んで、

いろんな文士達との交際が始まった。

文士達は 私を 身内同様に迎え、 私に ちやほやした。

そして あれよと思う暇(いとま)もなく、
私は私が交際を始めた人達の、文士特有の人生観が身について、

より 善良であろうとする私の内部の、
従前(じゅうぜん=以前)からの精進努力を無に帰してしまった。

これらの人生観が、
私の生活の自堕落さを正当化する理論を提供してくれたのである。



これらの人達の、私の物書き仲間の人生観は、

一般に人類生活は 進化発展の過程を辿るということ、

そして この発展に 我々思索人は 重要な役割を果たすということ、

なかんずく この思索人の中でも 
我々芸術家、詩人達は、主要な影響力を持つものだ、ということだった。

我々の天職は--- 人を教えることだった。

私は何を知っていて、何を教えたらいいかという、
当然起こる問題を思い浮かべないですむやり方としては、
この理論の中に、そんなことは別に知らなくてもいいので、
芸術家や詩人は 無意識の中に教えているのだ ということが説明されている。

私は 素晴らしい芸術家であり 詩人であると見なされていたので、

そのため この理論にかぶれるのも 至極当然だった。

私は 芸術家、詩人である。

それで私は書き、何かは知らないが 教えた。

それに対して私は 金銭の報酬を受け、

豪華な食事と、邸宅と、女達と、社交界とを持った。


そして私には 名声もあった。

だから 私が教えたものは、至極結構なことだった ということになるのだ。



詩というものの持つ意義と、人類生活の進化発展への信仰も、一つの信仰ではあった。

そして 私はその信仰の司祭の1人だったのである。

そうした司祭であることは、実に愉快でもあり、また 有利でもあった。

それで私は ずいぶん永い間 その信仰の中に生き、

その信仰の正当さを疑わなかった。

でも こうした生活も 2年目には、ことに3年目になると、
わたしに この信仰の神聖不可侵性への疑念が生じ、
その検討を始めたのだった。

この疑念の最初の機縁(きえん=きっかけ)は、
私が、この信仰の司祭達が、
みんな互いに同意見なわけではないことに 気がつき始めたことだった。

彼らのある者は言った。

我々こそ-- 最もよき、有益なる教師である。

吾々(われわれ)は 肝要なことを教えるのだが、

ほかの連中が教えるのは 誤っている、と。

ところが そのほかの連中は言った。

いやいや 我々こそ本物で、君達の教えるのは誤りだ、と。

そこで彼らは論争し、いがみ合い、罵(ののし)り合い、
欺(あざむ)き合い、誑(たぶら)かし合った。

のみならず 我々の間には、誰が正しく誰が正しくないかなどと
とんと気にかけず、ただもう こうした吾々の活動を利して、
私利私欲を計るだけの人達も うんといた。

こうしたことの全てが、

我々の信仰の正当性への疑念を生ぜしめたのである。



さらにまた、この文士的信仰の正当さを疑って、
注意深く その司祭達を観察した結果、

この信仰の司祭、つまり 文士達の殆(ほとん)ど全部が、

不道徳な、そして大部分 邪まな(よこしま=道にはずれていること)
取るに足らぬ性格の連中で---
--私が以前の放縦な軍隊生活で出会った人達よりずっとくだらぬ輩なのだが--

それでいて、完き(まったき=まったく)聖者ならいざ知らず、
さもなければ聖についての観念すら持ち合わせぬ連中のみにあるような
自己満足と 自負とに陥っているのだ ということを確信するに至った。

そこで これらの人達に 私は嫌悪感を催し、
また 自分が自分でいやになり、
そして この信仰が欺瞞(ぎまん=だますこと)であるこを悟ったのである。



しかし この信仰の全ての虚偽性を悟って、
間もなくそれから離脱したにもかかわらず、

理不尽にも、私はこれらの人達から与えられた地位、芸術家、詩人、
教師としての自分の地位からは 離脱しなかった。

私はナイーヴに、自分が詩人であり芸術家であり、
自分で何を教えるのかわからないままに、
みんなを教え導くことが出来るものと想像していた。

そこで私は そんな風にやったのである。