1-1 ハリストス正教の信仰の中に受洗させられ

私は ハリストス正教(=ギリシャ正教)の信仰の中に受洗させられ、また 教育されてきた。

この信仰を 私は幼年時代以来、
そして少年時代青年時代を通じて 教え込まれた。

然(しか)し 私が18歳の年に 大学の二学年から中途退学した時分には、

教え込まれた一切のものを 信じなくなっていたのである。



あれこれの思い出から判断すれば、

私はもともと 一度だって真剣に信じた覚えはなく、

ただ 自分が教え込まれたもの、
おとな達が私に対して信じている風に言うところのものを
信頼していたにすぎなかった。

でも その信頼なるものも、
頗(すこぶ)るつきの あぶなっかしいものであった。



忘れもしないが 私が11歳の頃、

もう とっくに死んで居ないのだが、
当時中学校の生徒だったウォローヂェンカ・Mという1人の少年が、
日曜日に私達の所へやって来て、
近来のホット・ニュースとして、中学校で行われた新発見のことを告げた。

その新発見というのは、
神なんか存在しないし、
神についてとやかく我々にお説教するのは、みんなもうでっち上げにすぎない
ということだった。(それは1838年のことだった)

私は 上の兄達が このニュースに興味を感じて、
私まで討議の仲間によんでくれたのも覚えているし、

そして我々は 大いに活気づいて、このニュースを
なにかこう とても興味深く、さもありなん といった風に取ったことも覚えている。



更にまた、大学在学中だった私の兄 ドミートリィが、突然彼一流の
熱狂的気性から、信仰に身を委(ゆだ)ね、凡(あら)ゆる礼拝に参加し、
斉(ものい)みを守り、貞潔で 高徳な生活を送り始めた時など、

我々みんな、そして おとな達まで、ひっきりなしに彼を笑い草にし、

なぜだか 彼を ノア とあだ名したことを覚えている。

そしてまた、我々を自宅にダンスに呼んでくれた、当時カザン大学の
監督官だったムーシン・プーシュキンが、辞退する兄を、
ダヴィデ王だって 聖櫃(せいひつ)の前で踊ったではないか と、
ひやかし半分に口説いたのも 覚えている。

私は当時 おとな達の こうした冗談に共鳴して、
その事から、教理問答は学ばねばいけないし、教会に行かねばいけないけれど、
そうした事を あまり真剣に取りすぎてもいけない、という結論を引き出したのだった。

それにまた、私はまだ 大変若い頃、ヴォルテールを読んだのだが、
彼の宗教嘲笑が 私を憤激させないどころか、
大いに愉快がらせたことも 忘れない。



私の信仰離脱は、我々グループの人種の中に
過去においても生じたし、また 現在もなお生ずるような過程で生じた。

それは多くの場合 次のようにして生ずるように 私には思われる。

人々は、みんなが生きて行くやり方に見習って 生きて行く。

ところで みんなは、信仰教条と なんら かかわらないばかりか、
大部分 それと対立する生活原理によって生きて行く。

信仰教条は 実生活に参入することはないし、

他人との交渉においても 決してそれに行き当らず、
また自分自身としても、個人的生活において決してそれを参照する必要はない。

信仰教条なるものは、どこかの、実生活と遙(はる)かにかけ離れたところで、

実生活に関係なく 信奉される、といった次第である。

よしまた信仰教条に行き当るとしても、それはただ外的な、
実生活と結びつかない現象としてのみなのである。

☆ 

その人の生活によって、その行為によって、
彼が信者であるかそうでないかを知ることが全然出来ないのは、
今もその頃も 変わりはしない。


もしまた おおっぴらに正教を信奉するものと、これを否定する者との間に
差異があるとすれば、むしろ 前者の方が いけないくらいである。

今もそうだが その頃も、
正教のおおっぴらな承認と信奉とは、大部分 愚鈍で残酷で、
自分を非常に重要な人物 と考えている人々の間に見出される。

一方 叡智は、廉正(れんせい=心が清く正しいこと)、誠実、
慈憐、高潔といったものは、
大部分 不信仰を標榜する人々の間に見い出されるのである。



種々(しゅじゅ)の学校で 教理問答を教え、生徒達を教会へ行かせる。

官吏達(かんりたち)には、規則的に聖餐(せいさん)を受けている という
証明を要求する。でも 我々仲間の、もう学校へも行かず、
宮仕えもしない人間には、今でも、まして昔はなおのこと、
自分が 基督教徒の世界に住んでいるということ、
また自身 ハリストス正教の信仰を信奉しているということを、10年に一度も
思い浮かべることなしに 生きて行けるというものである。



といった次第で、今も昔も、他を信用して受容され、外的拘束で維持される信仰教条は、
その教条に矛盾する人生の知識と経験の影響の下に 少しずつ消え去って行き、

もうそんなものは とっくに跡かたもなくなっているのに、
幼年時代から吹き込まれた信仰教条が、
今もって自分の中で 無事息災であるかのように錯覚して暮らして行く
といった事態が、非常にしばしば起こるのである。

1-2 聡明で誠実なSという男

聡明で誠実なSという男が、
どうして信仰をやめたかの経緯(いきさつ)を
私に語ったことがある。

早くも ほぼ26歳の時のことだが、
ある時 彼が猟に出ての野宿のおり、
古い 幼年時代からの習慣で、夜のお祈りを始めた。

一緒に猟に出た兄が、乾草(ほしくさ)の上に寝そべって 彼を眺めていた。

Sがお祈りを終わって 寝仕度(ねじたく)を始めると、
彼の兄は、”お前はまだそんなことをやってるのかい?” と言った。

それから二人は 何も言わなかった。

そして その日以来 彼はお祈りをやめ、教会に行くのをやめてしまった。

こうして、もう30年間もお祈りもしなければ、聖餐も受けず、教会へも行かないのである。

というのは、彼が兄の信念を知って それに同じようにした というよりは、
あるいは 何か心に思い定めた というよりは、
ただもう 兄がふと洩(も)らした言葉が、
自分自身の重みで倒れるばかりになっていた壁を、
ちょっと 指先で突いた といった具合だったのである。

兄の言葉はただ、彼がまだ信仰が存在していると思っていた場所が、

とっくに空巣(あきす)のからになっており、

したがってお祈りの際に彼が呟(つぶや)く言葉や、十字を切ることや、
叩頭(こうとう=頭を地につけて おじぎをすること)などが、
全く無意味な行為である ということを示したにすぎないのである。

それらの行為の無意味さを意識した以上、彼はもう それを実行することは出来なかった。



私は 我々程度の教養人種で、自分自身に誠実である人々について言っているので、
その信仰の対象を、何か世俗的目的達成の手段にしている人達についてではない。

(世俗的目的達成の手段にしている人達
---こうした人達こそ、
最も根本的な不信者にほかならぬ。
というのは、信仰というものが彼らにとって、
なんらかの世俗的目的達成の手段だというのなら、
それはもう 信仰などという代物ではないからである。)

これら我々のような人種は、
知識と実生活の火が、みせかけの建造物に燃えついて、
そのため彼らは それに気づいて退去するか、
あるいはまだそのことに気づかない といった状態にあるわけである。

1-3 お祈りをやめた

幼年時代以来、私に吹き込まれた信仰教条は、

ほかの人達の場合と同様に 消え失せたのであるが、

ただその差は、私は15の年から哲学的著作を読み始めたので、
私の信仰離脱は非常に早く、意識的なものとなったということである。

私は 16の年からお祈りをやめたし、

自発的に教会へ行ったり 精進したりするのをやめた。

私は 幼年時代から吹き込まれたものを信じなかったのだけれど、
それでも 何かを信じていた。

何を信じているのか と問われても、どうにも答えられなかったにちがいない。

私は やはり 神を信じていた、
と言わんよりは 神を否定しなかった。

でも どんな神か ということは 答えられなかったであろう。

私は キリスト 及び 彼の考えを否定しなかったのだが、

でも その教えの真髄(しんずい=そのものの本質)は 何か、
ということも やっぱり答えられなかったと思う。

今、当時を思い起こせば、私の信仰-- つまり、動物的本能以外に
私の生活を動かしたところのもの--- 唯一つの真実な私の信仰は、
自己完成への信仰であったことが はっきりわかる。

しかし どんな完成かということ、また その完成の目的は
どんなものかということは 答えられなかったであろう。

私は 知的自己完成に努力した。

--- 学べるだけのこと、そして 生活が私に直面させた事柄について、
何もかもを学んで行った。

私は 自分の意思を完成しようと努力した。

そこで 自分に規律を課して、それに従うよう努めた。

あるいは あらゆる鍛錬(たんれん)でもって 力と業(わざ)の増進を試み、

あらゆる困苦欠乏を通じて 忍耐と我慢を養成しながら、
肉体的完成を試みた。

そして こうしたことをみんな私は 自己完成だと考えたのである。

全ての発端は 勿論 徳性上の自己完成だったのだけれど、

間もなくそれは 一般的自己完成に、
つまり 自分自身あるいは 神の前によくありたい という願いでなく、

他人の前に そうありたい という願いにすり換えられてしまった。

そして更にこの、 他人の前に よりよくありたい という願いは、

たちまちのうちに

他人より 強者になりたい、

つまり、

名声も地位も富も 他人に立ち勝りたい という願いに置きかえられて行ったのである。

2-1 私の善良な叔母

いつの日か私は、若い頃のこうした10年間の生活の歴史を
--いと感動と教訓に富んだ歴史を--語るであろう。

実に多くの人達が、同様のことを経験したであろうと思う。

私は 衷心(ちゅうしん=心の底)から善を願った。

でも 未(いま)だ年若く、情欲もあるのに、
私は善を探し求めるのに ひとりぼっち、全くのひとりぼっちだった。

私が自分の最も奥深い願い、つまり 徳性上より善良になりたい
という願いを口にしようとする度(たび)に、
いつも私は 軽侮(けいぶ=人を見下してばかにすること)と
嘲笑(ちょうしょう=あざわらうこと)に出会った。

一方 いとわしい情欲に身を任せるや否や、
みなが私を賞讃したり
鼓舞(こぶ=大いに励まし気持ちを奮いたたせること)したりするのだった。

名誉欲、権勢欲、物欲、色欲、
増上慢(ぞうじょうまん=自分を過信して思い上がること)、
瞋恚(しんい=怒ること、いきどおること)、復讐欲、---
---これらは全て あがめ奉(たてまつ)られていた。



こうした情欲に身を任せながら、私はだんだん人並みのおとなに似て来て、

みなが私に満足しているのを感じた。

一緒に暮らしていた、類(たぐ)い稀(ま)れなほど清浄な女だった、
私の善良な叔母すら、 いつも私に、

あんたが夫ある婦人と関係を持つことほど願わしいことはない
と思っている旨(むね)を告げたものだった。

Rien ne forme un jeune homme, comme une liaison avec une femme comme il faut.

(ちゃんとした御婦人と関係を持つことくらい、
若い殿方(とのがた=女性が男性を丁重にさしていうときに用いる)の
教育になるものは ありませんからね。) と 彼女は言ったのである。

その外に 彼女が私に願った幸福というのは、

私が副官に、それも出来るものなら 皇帝づきの副官になるということだった。

そして更に 幸福の最大なるものとして、

私が 非常に富裕な令嬢と結婚し、

その結婚の結果として、なるべく多くの農奴を持ち得るように願った。



おののきと 唾棄(だき)の念と、心の疼(うず)きを覚えることなしに

その頃のことを思い浮かべることは出来ない。

私は 戦争で 人殺しをやったし、

人殺しをやるために 決闘を挑(いど)みもした。

カルタで損をし、百姓達の労苦の結晶を浪費もした。

また 彼らを罰したり、いたずらをしたり、

欺いたりもした。(あざむく=言葉巧みにうそを言って、相手に本当だと思わせる)

嘘吐き、泥棒、色んな姦淫(かんいん=男女が道義に背いた肉体的交渉をもつ)、

泥酔、暴力、殺人-------私のやらない犯罪は なかった といっていい程である。

しかもこれらの全てに対して、

私の同輩は 私を賞(ほ)め、私を わりに道徳的な人間だと思っていたし、

今でも 思っているのである。

こんな風に 私は10年の歳月をすごした。

2-2 虚栄と物欲と思い上がり

その頃私は、虚栄と物欲と 思い上がりから 著作を始めた。

私は自分の著作においても、生活におけると同じことをやった。

私がそのためにこそ書いたところの 名誉と金とを得るためには、
善きものを蔽(おお)いかくして、
悪(あ)しきものを露呈(ろてい)せねばならなかった。

そこで 私はそうしたのである。

何度私は、自分の著作の中で、
実は私の生活の意義を構成しているところの善への渇望(かつぼう)を、
無関心を装ったり、
あるいは 軽く嘲笑(ちょうしょう)を浴びせたりしながら、
うまくかくそうと 企(たくら)んだことであろう。

そして私は まんまとそれを仕遂げ、

みんなが私を 賞(ほ)めそやしたわけである。



26歳の時、戦争が済んでから、私はペテルブルグに乗り込んで、

いろんな文士達との交際が始まった。

文士達は 私を 身内同様に迎え、 私に ちやほやした。

そして あれよと思う暇(いとま)もなく、
私は私が交際を始めた人達の、文士特有の人生観が身について、

より 善良であろうとする私の内部の、
従前(じゅうぜん=以前)からの精進努力を無に帰してしまった。

これらの人生観が、
私の生活の自堕落さを正当化する理論を提供してくれたのである。



これらの人達の、私の物書き仲間の人生観は、

一般に人類生活は 進化発展の過程を辿るということ、

そして この発展に 我々思索人は 重要な役割を果たすということ、

なかんずく この思索人の中でも 
我々芸術家、詩人達は、主要な影響力を持つものだ、ということだった。

我々の天職は--- 人を教えることだった。

私は何を知っていて、何を教えたらいいかという、
当然起こる問題を思い浮かべないですむやり方としては、
この理論の中に、そんなことは別に知らなくてもいいので、
芸術家や詩人は 無意識の中に教えているのだ ということが説明されている。

私は 素晴らしい芸術家であり 詩人であると見なされていたので、

そのため この理論にかぶれるのも 至極当然だった。

私は 芸術家、詩人である。

それで私は書き、何かは知らないが 教えた。

それに対して私は 金銭の報酬を受け、

豪華な食事と、邸宅と、女達と、社交界とを持った。


そして私には 名声もあった。

だから 私が教えたものは、至極結構なことだった ということになるのだ。



詩というものの持つ意義と、人類生活の進化発展への信仰も、一つの信仰ではあった。

そして 私はその信仰の司祭の1人だったのである。

そうした司祭であることは、実に愉快でもあり、また 有利でもあった。

それで私は ずいぶん永い間 その信仰の中に生き、

その信仰の正当さを疑わなかった。

でも こうした生活も 2年目には、ことに3年目になると、
わたしに この信仰の神聖不可侵性への疑念が生じ、
その検討を始めたのだった。

この疑念の最初の機縁(きえん=きっかけ)は、
私が、この信仰の司祭達が、
みんな互いに同意見なわけではないことに 気がつき始めたことだった。

彼らのある者は言った。

我々こそ-- 最もよき、有益なる教師である。

吾々(われわれ)は 肝要なことを教えるのだが、

ほかの連中が教えるのは 誤っている、と。

ところが そのほかの連中は言った。

いやいや 我々こそ本物で、君達の教えるのは誤りだ、と。

そこで彼らは論争し、いがみ合い、罵(ののし)り合い、
欺(あざむ)き合い、誑(たぶら)かし合った。

のみならず 我々の間には、誰が正しく誰が正しくないかなどと
とんと気にかけず、ただもう こうした吾々の活動を利して、
私利私欲を計るだけの人達も うんといた。

こうしたことの全てが、

我々の信仰の正当性への疑念を生ぜしめたのである。



さらにまた、この文士的信仰の正当さを疑って、
注意深く その司祭達を観察した結果、

この信仰の司祭、つまり 文士達の殆(ほとん)ど全部が、

不道徳な、そして大部分 邪まな(よこしま=道にはずれていること)
取るに足らぬ性格の連中で---
--私が以前の放縦な軍隊生活で出会った人達よりずっとくだらぬ輩なのだが--

それでいて、完き(まったき=まったく)聖者ならいざ知らず、
さもなければ聖についての観念すら持ち合わせぬ連中のみにあるような
自己満足と 自負とに陥っているのだ ということを確信するに至った。

そこで これらの人達に 私は嫌悪感を催し、
また 自分が自分でいやになり、
そして この信仰が欺瞞(ぎまん=だますこと)であるこを悟ったのである。



しかし この信仰の全ての虚偽性を悟って、
間もなくそれから離脱したにもかかわらず、

理不尽にも、私はこれらの人達から与えられた地位、芸術家、詩人、
教師としての自分の地位からは 離脱しなかった。

私はナイーヴに、自分が詩人であり芸術家であり、
自分で何を教えるのかわからないままに、
みんなを教え導くことが出来るものと想像していた。

そこで私は そんな風にやったのである。

2-3 増長した高慢さ

これらの人々との交際は、私に 新たな罪過、
つまり 病的なまで増長した高慢さと、自分で何をとも知らぬままに、
自分には 人に教える天職があるという狂的な確信を齎(もたら)した。



現在、当時を思い出し、当時の自分の、そしてまた それらの人達の気持ち
(そうした人達は、実は今でも何千といるのだが)、を思い出せば、
哀れでもあり、恐ろしくもあり、また 笑止でもある。

まるでもう、精神病院の中で味わうような感情が生ずるのだ。



当時我々は 全て、自分達はなるべく急いで、なるべく多くまくし立て、書き、
印刷する必要があり、
そしてそれは、みんな 人類の福祉のために必要なのだと確信していた。

で 我々幾千人は、互いに否定し合い 罵(ののし)り合いながら、
他人に教えを垂(た)れるために、こぞって出版したり書いたりした。

そして 我々がなんにも知らないこと、人生における最も単純素朴な問題--

--何が善で 何が悪かということにも
答える術(すべ=てだて)を知らないことに気づかずに、

互いに他人を黙認したり賞讃したりし、時にはまた 互いに苛立ち合って、

まるで 精神病院そのままに、みんな一斉に がなり立てるのだった。



幾千もの職工が、昼夜精魂をつくして働き、活字を組み、数百万語を印刷し、
郵便は それをロシア全土にばらまくのだが、
それでも我々は いっそうピッチを上げ、しかも どうしても教え切れないで、
しょっちゅう、みんなが自分達の言葉にあまり耳を傾けないといって、
腹を立てる といった有様だった。



全く奇怪な話ではあるが、今になってみれば 事の次第がよくわかる。

我々の まぎれもない心底の思惑(しわく=煩悩)というのは、

ただなるべく多くの金銭と賞讃がほしかっただけの話なのだ。

そして その目的達成のために 我々に出来ることは、

書物や新聞に書くこと以外 何もなかった。

だから我々は そうしたのである。

しかし そんなくだらない事をやって、
しかも 自分達を 大変な重要人物だとうぬぼれるためには、
更に我々の活動をジャスティファイ(正当化)する論拠というものが必要だった。

そこで我々は 次のようなことを考えついた。

--存在するものは 全て合理的である。
存在するものは 全て進化発展する。
そして その進化発展は、常に文化の恩沢(おんたく=恩恵)による。
文化の程度というものは、書物や新聞の普及度によって測られる。
ところで我々が書物や新聞に書くことに対して、世間は金銭を支払い、
かつ 尊敬を捧げる。だから我々は--最も有益な立派な人物だということになる。

こうした判断は、もしも我々がみんな同意見であれば、大変結構な話であろう。

でも 誰か一人が何かの意見をのべれば、
きまってそれと真っ向から対立する意見が現われるのだから、
我々としても よく胸に手を当てて考えそうなものだった。

ところが我々は 
そんなことに頓着(とんちゃく=深く気にかけてこだわること)しなかった。

金銭上の報酬はあるし、我が党の陣営からは賞讃を受けるし、

つまり我々は、めいめい自分を正しいものと思い込んだのである。



今にして思えば、まるでもう 
精神病院と変わるところがなかった所以(ゆえん)が よくわかる。

でも その当時は、ただ漠然たる疑念を持っただけで、

また 全て狂人というものがそうであるように、

自分以外のみんなを狂人と呼んだ次第であった。

3-1 《進歩》に対する妄信

こうして私は、そうした昏迷(こんめい)に身を任せながら、
更に結婚前の6年間を過ごした。

その期間に 私は外国旅行をした。

ヨーロッパでの生活と、ヨーロッパ第一線の、そしてまた学のある人達との交際は、
ますます私に、自分の安住する一般的自己完成の信仰を 固めさせた。

というのは、そっくりそのままの信仰を、私は彼らの中に見い出したからである。

その信仰は私のなかで、当代の大多数の教養人種の場合のような
ありふれた形態をとった。

その信仰は 《進歩》 という言葉で表現された。

当時私には、この言葉に ひとかどの意味があるように思われた。

私にはまだ、全ての生きた人間がそうあるように、
いかによく生くべきか という問題に悩まされている私が、
プログレス(進歩)に沿って生きること と答えるとき、

波風に翻弄(ほんろう)される小舟に乗った人が、
彼にとって 肝心な唯一の 《いずれの方向を目指すべきか?》
という問題に答えることを忘れて、
《どこかへ行く所へ行くさ》と言う場合と まるで同様だ、

ということが 分からなかったのである。



当時 私は そのことに気がつかなかった。

ただ 時たま、理性でなくて感情が、
人々がそれを盾にして自(みずか)ら自分の人生無理解を
蔽(おお)いかくしているところの、現代一般のこの妄信に
反撥(はんぱつ)を感ずるのだった。

例(たと)えば パリ滞在中 死刑執行の実況を見たことが、

私のプログレス(進歩)に対する妄信のはかなさを 思い知らせた。

首と銅とが切り離され、

二つとも 別々に 箱の中にごとん と落ちるのを見た時、

私は 理知でなく、自己の全存在によって、
存在するものは 全て合理的であるという理論も、
プログレス云々の理論も 
この行為をジャスティファイ(正当化)することは出来ないし、

よし世界中の悉(ことごと)くの人々が いかなる理論を持ち出し、

そして開闢(かいびゃく=世界の始まりの時)以来ず~っと
それの必要性を主張して来たとしても、

私はそれが必要なことではなく、邪(よこしま)なことであることを知っており、

したがって 何が善で また必要なことかについては、

世人(せじん=世の中の人)が言ったりしていることとか、
プログレス云々とかでなく、

かく言う私自身が、全心情をかけての裁定の主体でなければならない
ということを悟ったのである。



進歩への妄信が 
人生理解に間に合わぬことを意識させたもう一つの事件は
私の兄の死だった。

聡明で善良でまじめな人間であった彼は、
若い身空で病魔の虜囚(りょしゅう)となり、一年以上苦しみ抜き、
痛々しく 死んで行った。

なぜ生きて来たのかも、況(いわん)や なぜ死んでいくのかも悟り得ぬまま。

彼が徐々に苦しみながら死んで行く時、私に対しても彼に対しても、
いかなる理論も、これらの問いに対して 何も答えることは出来なかった。

然(しか)し これらのことは ただ時たまの疑念にすぎなくて、

本来は 依然として進歩の信仰に身を委(ゆだ)ねつつ暮らし続けたのである。

《全てのものは 進歩発展するし、私自身も そうする。
ところで 何のために私が全てのものと一緒に こんな風に進歩発展するかは、
まぁ そのうち分かるだろう。》

言って見れば 当時の私は、自分の信仰を こんな風な形に言い表わしたでもあろう。

3-2 教える資格は無い

外国から帰って 私は田舎に落ち着き、
農民学校の仕事に手を染めた。

この仕事は 殊(こと)のほか 私の気に入った。

というのは この仕事には、その頃 私にははっきりして来て、
早や正視に堪えぬ感じを催させたところの、
文学上の教師としての活動の中の 
あの 欺瞞(ぎまん)がなかったからである。

この場合もやっぱり私は、進歩の名において活動したにはしたものの、

早や 進歩そのものに対する批判的立場にあった。

進歩 というものは、その或る種の現象の中では、誤った方向に発展して来ている。

だから最も素朴な人種、農民の子弟に対して
完全に自由な態度で接し、
彼らが 自ら欲するところの進歩の道を択(えら)ぶように仕向けねばならない。

と、こんな風に 自分に言いきかせた。

それでも 本当のところ私はやっぱり、何を教ゆべきかを知らないで教えようという、
解き難い課題のまわりを 相変わらず堂々めぐりしていたのである。

文学界の雲上人(うんじょうびと)達の間にあっては、

私は 何を教ゆべきかを知らずに教えることは出来ない と悟った。

というのは これら雲上人達は、みんな てんでんばらばらの事を教え、

互いに したり顔(=得意顔)の論争に紛れて、
辛うじて 自分の無智を忘れているといった始末だった。

ところが こうして農民の子弟と一緒にいると、

子供達に 彼等の欲するに任せて学ばせることによって、

この醜態を避け得るものと私は思ったのだ。

私は 自分の欲望
--心の奥底では 自分は何が大事なことかを知らないのだから、
その大事なことについて 何も教える資格はないことを百も承知でありながら、
やっぱり教えたい という欲望--を充(み)たすために、

自分がどんなにポーズをつくったかを思い起こせば、
今でも おかしくなって来る。

学校の仕事を始めて1年の後、私は、自分では何も知らないで
他人に教え得る方法を知らんがために、再び外国へ旅立った。



そして私には、外国で その方法が習得できたように思えた。

そこで これらの全ての新知識に身を固めて、
農奴解放の年にロシアに帰り、農事調停員の椅子を占め、

教育のない一般の人々を 学校で、
また 教育のある人達を 自分が発行し始めた雑誌を通じて 教えだしたのである。

事は まずまずうまく運ぶかに思えた。

然(しか)し私は、どうも少し 精神的に健全とは言えず、
ずっとそれを続けることは出来まいと感じた。

で、もしも私に もう一つの生活の側面、
つまり まだ私が経験したことがなく、
そして私に救いをもたらしてくれそうに思えたものがなかったら、

あるいは その15年後に直面した絶望に、その時 直面していたかもしれない。

---それは外でもない、結婚生活だった。



1年の間 私は調停員、学校、雑誌の仕事に従事して、

何よりも ごたごたにまき込まれるのに疲れ果てた。

調停における争い事が 私にはやり切れなく、
学校事業の効果も すっきりしなかった。

相(あい)も変わらず、みなを教えながら、
実は 自分が何を教ゆべきかを知らぬことをかくしておきたい、
という願いからのみなる 雑誌発行のごまかしが、
私には ひどく忌(い)まわしくなって来た。

そして そのあげく、

肉体的によりも寧(むし)ろ 精神的に参ってしまい、

何もかも放擲(ほうてき=投げ出すこと)して、
パシキール人の住む広野へ旅立った。

清浄な空気を吸い、馬乳酒を飲み、原始的生活をするために。



そこから帰って、私は結婚した。

そして 幸福な家庭生活の新たな諸条件が、
人生の普遍的意義の探求から、もうすっかり私を引き離してしまった。

当時 私の全生活は、家庭に、妻に、子供達に、

したがって 生活の資を増大する配慮に集中されていた。

もう その前から 一般的完成、
あるいは進歩への努力にすり換えられていた完成への精進努力は、

今や なるべく私と私の家族に有利なように
という努力に すり換えられてしまったのである。



こうして 更に15年が過ぎて行った。

3-3 生命力の停滞--どう生き、何をしたらいいのか

その15年間ずっと、私は文士稼業を くだらぬことだと思って来たにもかかわらず、

やっぱりずっと 物を書きつづけて来た。

私はすでに 文士稼業の誘惑、
莫大な金銭的の、そしてまた 私のくだらぬ作品に対する拍手喝采の誘惑の味をしめ、

自分の物質的境遇改善と、私自身 及び万人の 生の意義に関する
心中(しんちゅう=内心)の凡(あら)ゆる疑問圧殺の手段として、
その誘惑に 身を委ねたのであった。



私は 私にとって唯一 いつわりのないところのもの--出来るだけ
自分と自分の家族の利益のために生きねばならぬことを教えながら
著作をやったのだ。



こんな風に 私は暮らして行った。

ところが 5年前から私に 何か非常に奇妙な現象が生じ出した。

最初に いぶかりの念、

どう生きたらいいのか、

何をしたらいいのか分からなくなる といった、生命力の停滞の瞬間が
私の中に起き始め、

そのために私は取り乱し、意気銷沈(いきしょうちん)した。

然し それも間もなく過ぎ去って、私は依然 従前通りの暮らしに戻った。

それ以来、この いぶかりの瞬間は ますます頻繁に、

そして いつも同じ形で繰り返されるようになった。

この生命力の停滞はいつも、

なぜ? そしてそれから? という疑問の形で表れるのだった。



最初私には、 そんなものは、まぁ、無駄な、見当はずれの疑問にすぎない、

といった気がした。

そんなものはすっかり分かり切ったことで、その解決に手を染める気にさえなれば、

私にとっては それは何でもないことである。

ただ、今のところ そんなことをやっている暇がないが、思い立ちさえすれば、
すぐ解答なんか見つかるんだと思われた。

然しながら この疑問は ますます頻繁に繰り返され、ますますしつこく解答を迫り始め、
雫(しずく)がいつも一点に集中して落ちるように、解答を与えられぬこの疑問は、
重なり合って 一つの黒い斑点になって行った。



不治の内部疾患に犯された、あらゆる患者に起きるようなことが起きた訳である。

最初は 患者が気にもとめない程 軽微な、
種々(しゅじゅ=いろいろ)の不調の徴候が現れる。


其の後 これらの徴候は ますます頻繁に繰り返され、

ついにはもう 絶え間のない苦悩と化してしまう。

苦悩はますます募(つの)り、患者はあっという間もなく、
彼が単なる不調ととっていたものが、彼にとってこの世において最も厳粛なもの、
--外ならぬ死そのものであることを悟るのである。



まさに そうしたことが私に起きたのである。

私は、これは かりそめ(=一時的)の不調などでなく、何か非常に重大なもので、
この疑問が相変わらず繰り返されるなら、
何とかそれに解答しなければならない と悟った。


そこで私は解答しようと試みた。

そうした疑問は くだらない、単純な、子供じみた疑問に思えた。
然しながら、私がそれに手をつけ、解決しようと試みるや否や、
私は第一に それが決して子供っぽい、ばかばかしい疑問なんかではなく、
人生における 最も重大な 深遠な疑問である ということ、
それから 第二に、どんなに考えて見ても、どうにもこうにも 私には
その疑問を解く力がない ということを思い知った。

サマーラの土地の世話とか、息子の養育とか、著作とかをやる前に、
なぜ そんなことをするのかを知る必要がある。
なぜ? ということが分からなければ、
私は何もやれないし、また 生きていくことも出来ない。


当時 私がすごく熱中していた 農事経営についてのもくろみの合間に、
ふと 次のような疑問が浮かんだりするのだった。

《よろしい、お前はサマーラ県に6千デシャチーナ
(訳者註、1デシャチーナは1,092ヘクタール)の土地と、300頭の馬が持てるだろう。
が、それから?》

そこで私は 完全に呆然(ぼうぜん)となって、
その先 どう考えたらいいか分からなくなるのだ。

あるいは 子供達の養育について あれこれ考えながら、
ふと、《何のために?》と自問する。

あるいは、どうしたら一般民衆の福祉が達成出来るか と思いめぐらしながら、
ふと、《それが私に何の関係がある?》と自問する。

あるいは 自分の作品が私にもたらすであろう名声について思いながら、

《よろしい、お前は ゴーゴリ、プーシュキン、シェークスピア、モリエール、
その他 世界のすべての作家以上の名声に輝くかもしれない。
--が、それがどうだというのだ?》と自問する。

するともう私は、なんにもなんにも答えることが出来ないのだった。

疑問は待っていてはくれないから、今すぐ答えねばならない。

答えない限り、生きて行けないのだ。

ところが その答えが見当たらないのである。

私は 自分の立っている地盤が潰(つい)え去って、もう足場がないこと、

私が それを頼りにこそ生きて来たところのものが、早や無くなったこと、

これでは 生きるよすがもない ということを感じた。

4-1 50歳に充たぬ頃--幸福な人間であるはずの私

私の生活は行き詰った。

私は呼吸し、食べ、飲み、眠ることは出来た。また 呼吸や飲食や睡眠などは、
やめられる筋合いのものでもなかった。

でも それの充足を合理的と感ずるどんな希望も私にはなかったのだから、
生活そのものが なかった。

よし 私が何かを希望したとしても、私には前以(まえもっ)て、
その希望を充たしても充たさなくても、
どうせ 何の足しにもなりはしないことが分かっていた。

よし 女魔法使いがやって来て、私の希望するものを叶えてやろうと申し出ても、
何といっていいやら わからなかっただろう。

また 若(も)しも私に、酩酊の折りなど、希望とは言えないが、
従前からの希望の惰性のようなものが現れるとしても、
酔いが覚めるや、そんなものは欺瞞にすぎなくて、
何も望む程のものでないことが分かるのである。

真実を知ることすら、私には望ましくなかった。

なぜなら、その真実がどんなものか、見当がついていたからである。

真実とは、人生は無意味である ということだった。

まるで私は 暮らしつづけ、進みつづけ、

あげくは 断崖に行き着いて、

この先には 滅亡の外 何もないことが はっきり分かった、といった風だった。

止まることも出来ないし、

引き返すことも出来ないし、

前途には ただ苦悩と まぎれもない死
-- 完全な絶滅以外の何ものもないことを見まいと目をつむることも出来なかった。



私には、健康で幸福であるこの自分が、
もうこれ以上生きて行けないと感ずるという事態が生じた。

何か抗し難い力が、
何とかして人生からのがれるようにと 私を誘(いざな)うのだった。

でも 私が自殺を望んでいた とは言えないのである。



私を 人生からのがれるよう誘った力は、望みなどというものよりもっと力強い、
もっと横溢した(おういつ=あふれるほど盛んな)、もっと普遍的なものだった。

それは 従前(=これまで)の生への精進努力に似て、
ただそれが 反対の方向を目指しているのであった。

私は全力をあげて 生からのがれようと もがいた。

以前に 生の改善の想念が生じたように、

今度は 自殺の想念が ごく自然に生じて来た。

この想念が 凄(すご)く魅惑的なので、
私は あまりあわててそれを実行に移すことがないように、
自分自身に対して からくりをしなければならなかった。

私が あまり事を急ぐのを欲しなかったのは、ただ、
何とかこの窮状を打開するためにやれるだけやって見たい と思ったからだった。

もし打開が出来なくとも、死ぬのはいつでも死ねると思われたのだ。

そこでその時、幸福な人間である筈(はず)の私は、
毎晩着物を脱いで 独りぼっちでいる私室の、
戸棚から戸棚に渡された横桁(よこげた)に首を縊(くび)ることがないように、
身辺からロープ類をかくしてしまい、
あるいはまた、あまりにやすやすと
自分をこの世からおさらばさせる危険物の誘惑に乗らないために、
銃を携帯して 猟に出あるくのもやめてしまった。

私は 何を望んでいるのか、自分でも分からなかった。

私は 生を恐れ、

それからのがれようと もがきながら、

一方なお 何かを生に期待しているのだった。



この事が起きたのは、

申し分のない幸福 とされているものに、
各方面において 私が恵まれていた時のことだった。

それは私がまだ 50歳に充たぬ頃である。

私には 善良な、愛し愛される妻や、立派な子供達や、私が別に骨を折らなくとも、
自然に生じ また増大して行く莫大な財産があった。

私は それ以前のどの頃よりも 身内の者や友人達に尊敬され、
他人に賞(ほ)めそやされ、殊更(ことさら)うぬぼれなくとも、
自分の名声が 輝かしいものであると考えることが出来た。

のみならず私は 狂気、あるいは精神的に不健全といえないどころか、

反対に 自分の同年輩の人々の間にめったに見かけない程の、
精神的肉体的力を持ち合わせていた。

肉体的には、草刈りで 農夫達におくれをとらずに働くことが出来た。

智的労働では、8時間乃至(ないし)10時間 ぶっつづけに仕事が出来、

その無理が あとに尾を引く ということもなかった。

そうした状態にありながら、

私はもう生きて行けない といった心境に直面し、死を恐れて、
自殺などすることのないよう 自分に対して からくりをしなければならなかったのだ。

4-2 馬鹿みたいにぼんやりと頂点に立っている

その時の精神状態は、言って見れば 私に次のように感ぜられた。

--私の生涯は、一種の、
何者かが私の上に仕組んだ 愚劣で意地悪なメロドラマにすぎない、と。

私は その自分を創造した《何者か》を認めなかったにもかかわらず、

何者かが私をこの世に生まれさせて、意地の悪い、愚劣なふざけ方をしている、
といった表象形式は、私にとって 最も自然な表象形式だったのだ。



私にはどうでも、今、どこかで何者かが、
私がたっぷり30年乃至40年生きつづけ、
学び、成熟し、心身共に発達し、
そして 現在の私のようにすっかり思考力も固まって、
そこから人生の全展望が開ける生の頂点に達して、

--さてそこで、人生にはなんにもないし、過去にもなかったし、
未来にもないであろうことが はっきり分かって、

馬鹿みたいにぼんやりと その頂点に立っているのを見て 面白がっている、
といった気がした。

そいつにしたら ふき出したいだろうなぁ-- といったような。



然(しか)し その私を嘲笑する何者かが存在するにしろ しないにしろ、

そんなことで私の悩みが軽減される訳のものでもなかった。

私は 自分のどんな行為にも、また生活全体にも、
なんら合理的な意義を附することが出来なかった。

私はただもう、なぜ最初からそのことが分からなかったのだろう と不思議だった。

そんなことはもう 疾(と)っくにみんなに分かっているはずだ。

今日-- でないなら明日、病気が、死が 愛する人々を、
(すでに過去において 眼のあたり 起きたことだが)そして私を襲い、
悪臭と蛆(うじ)との外 なんにも残らなくなるのだ。

私の業績は、よし どんなものにせよ、早晩すっかり忘れ去られ、

そして第一に この私が 元も子もなくなってしまう。

だのに一体 何のために齷齪(あくせく)せねばならないのか?

どうして人は この事実に眼を瞑(つむ)って生きて行けるのか?

-- 全く驚く外はない!

生に酔いしれている間だけは、生きて行かれもしよう。

でも 酔いがさめるや否や、

それは何もかも欺瞞、しかも 愚劣な欺瞞であることを見ないではいれまい。

いや こうなれば全く、滑稽とか巧妙どころの騒ぎでなく、

-- ただもう 残酷で愚劣という外(ほか)はないのだ。



古い東洋の寓話の中に、廣野(=広野)で怒り狂う野獣に出会った旅人の話がある。

旅人は 野獣をのがれるため、水のない井戸に逃げ込むのだが、その井戸の底には、

口を開けて 彼をのみ込もうと構えている一匹の竜がいるのが見える。

そこで この可哀そうな男は、怒り狂う野獣に滅ぼされるのを恐れて、
井戸からはい上がる勇気もなく、
竜にひとのみにされそうで、井戸の底にとび降りることも出来ず、
中途の隙間に生えている潅木(かんぼく)の枝につかまっている。

手がだんだん疲れて来て、彼は間もなく 両面から彼を待ち構える滅亡に
身を委ねる外ないことを感ずる。

それでも彼はつかまっているのだが、ふと見ると 二匹の、
一つは黒い 一つは白い鼠が、彼のつかまっている潅木の幹の周辺を
規則正しく ぐるぐる廻りながら、それを齧(かじ)っているのに気がつく。

今にも潅木が倒れちぎれると、彼は竜の口へ落ちて行く。

旅人はこれを見て、所詮(しょせん)もうおしまいだと知る。

然し ぶら下がっている間に彼は あたりを見廻して、
潅木の葉に 蜜の雫があるのを発見し、舌をのばして それを嘗(な)める。

こんな風に私も、死の竜が どうでも私をやっつけようと待ち構えているのを知りながら、

生の小枝にしがみつき、どうしてまた こんな苦境に陥ったのか、
訳が分らないでいるのである。

そこで私は、以前に私を喜ばした蜜を嘗めようとして見る。

でもこの蜜は、も早 私を喜ばさない。

そして一方 白と黒の鼠-- 昼と夜--が、私のつかまっている小枝を嚙(かじ)っている。

私には竜の姿がはっきり見えて、蜜の味が ちっとも甘くないのである。

私がじっと見つめるのは、--ただもう 宿命の竜と鼠の姿--であって、
それから眼を離すことが出来ない。

これはもう 寓話などではなく、これこそまぎれもない、
論駁(ろんばく=相手の論や説の誤りを論じて攻撃すること)の余地のない、
誰にも分り切った真実なのである。



竜の恐怖を蔽いかくす、従前の生の喜び という欺瞞は、

もう私をだますことは出来ない。

どんなに私に、

お前は 生の意義を悟りっこない、

考えるな、ただ生きよ、

と言っても、そんな訳には行かない。

私は以前から、あまりにも永い間 そんな風に暮して来すぎたのだ。

今では私は 昼と夜、私を死へと導く矢の如き光陰を見ずにはいられない。

私は それだけを見つめる。

なぜなら それだけが--唯一の真理である。

ほかのものは--みんな まやかしにすぎない。

4-3 闇の恐怖

何よりも永い間 この仮借なき真実から 
私の眼をそらせていた二滴の蜜

-- 家族への愛と、
私が芸術と呼んでいたところの創作活動への愛--

も早や私にとって 甘さを失ったのである。

《家族か--と私は自分に言う。でも家族
--妻や子供達、彼らもやっぱり人間じゃないか。

彼らだって、そっくり私と同じ条件の中にいるではないか。
彼らも嘘偽(うそいつわり)の中で 暮して行くか、
あるいは 恐るべき真理を見るかせねばならない。

なぜ彼らは生きねばならないのか?
なぜ私は彼らを愛し、保護し、育て守って行かねばならぬのか?
私が感ずるような絶望を感じさせるためか?
あるいは 痴呆状態に導くためか?
彼らを愛するからといって、彼らから真実をかくすことは出来ない。

一歩々々と知識が増す毎(ごと)に、
彼らはこの真実に近づいて行く。

その真実とは---死》



《では芸術は? 詩は?》

うまうまと世人の賞讃を博したおかげで、私は永い間、
全てを無にする死、私の業績もその思い出も無に帰する死がやって来るにもかかわらず、
それをやる価値のある ひとかどの仕事だと自分を説得して来た。

然し 間もなく私は、これまた欺瞞にすぎないということを見てとった。

私には 芸術が生の装飾、生への誘いであることが はっきりしていた。

ところで 生が私にとってその魅力を失ったのに、
どうして私に他人を誘うことが出来るだろう?


私が自分自身の生を生きないで、
他人の生活が その波の上に私を翻弄していた間、
また私がそれを言いあらわし得なくても、とにかく生に意味があると信じていた間は、
--詩や芸術における いろんな種類の人生の反映が私に喜びをもたらした。

私には この芸術の鏡の中に 生の姿を眺めることが愉快だったのだが、

私が生の意味を探し始めるや、

どうでも自分で生きることの必須性を感じ始めるや、

この鏡は 私にとって用のない、

余計で滑稽な、あるいはむしろ にがにがしいものに変ったのである。

私は 自分が鏡の中に見るところのもの、
つまり 私の置かれた立場が 愚劣で絶望的である
という事実に 慰みを覚える訳に行かなかった。

私が心の底で、自分の生活が意味を持っていることを信じていた頃は、

その鏡を見て 喜ぶのもよかった。

その頃は この光の戯(たわむ)れ
--人生における喜劇的、悲劇的、感動的、美的、
戦慄的(せんりつてき)な--が 私を慰めた。

然し、私が、人生が無意味で恐怖に充ちていることを知った時、

この鏡の中の戯れは、

も早や 私をうかれさせることは出来なかった。

いかなる蜜の甘さも、私が竜と、私を支えている灌木を嚙る鼠を見た時、

私に美味を感じさせることは出来なかった。



が、それだけではない。

もし私が 人生に意味なぞないとあっさり観念出来たら、

そのことを知っても 騒がなかったろうし、

それが自分の宿命だと悟ったでもあろう。

でも私は、そうした境遇に安住できなかった。

もしも私が森林に住んでいて、
そこからの出口のないことを知っている男のようだったら、

私は生きて行けたであろう。

でも 私は森林にさまよい込んで、迷ったことに恐れおののき、

何とか道に出ようとあがく男-- 一歩々々ますます迷い込むことが分っていながら、
やっぱり あがかずにはいれない男のようものだった。



そのことが何よりも恐ろしかった。

そしてその恐怖からのがれるために、自殺を思ったのである。

私は 自分の前途に待ち構えるものに おじ毛をふるった。

その恐怖の方が、自分の置かれた境地自体より
もっと恐怖に充ちている ということも 分ってはいた。

でも私は、じっと辛抱強く破局を待つことが出来なかった。

どうせそのうち 心臓の血管が裂け、

あるいは何か内臓が破裂して、何もかもおしまいになるんだとは、

理屈の上ではどんなに分っていても、

やっぱり辛抱強く 破局が待てなかった。

闇の恐怖があまりにも大きくて、

私は一刻も早くロープか銃で その闇を脱出したかった。

そうした気持ちこそ 何よりも強く、

私を自殺へ引き寄せたのである。

5-1 学問の中を探しまわった

《だが ひょっとすると、私は何かを見落としていないだろうか?
何かを理解し損っているのではないか?》

幾度か私は こう自問した。

《こうした絶望的状態が、人間に固有の宿命だなどということは、
あり得るはずがないではないか!》

そこで私は、人々が獲得したあらゆる学問の中に、

私の疑問に対する説明を探した。

苦しみながら 永いこと探した。

のんきな好奇心とか、また漫然とした気持ちで探したのではなく、

滅亡に直面した人が 救いを探し求めるように、
苦しみながら、執拗に、昼夜の別なく探した。

-- それでも なんにも見つからなかったのである。



私は あらゆる学問の中を探しまわった。
それでもやっぱり説明が見つからなかったばかりではなく、
私のように 学問の中にそれを探したものは、
みんなちょうど私みたいに、なんにも発見出来なかったのだ
ということを 確信するようになった。

それも単に発見出来なかったばかりでなく、
私を絶望に導いたところのそのもの、即ち 所詮人生は無意味である
という事実こそ、人間に手の届く唯一の疑いなき知識であるということを、
はっきり承認しているのだった。



私は どこもかしこも探したし、

また私が過した学究生活のおかげで、それと同様に、
学者社会との交際によって 私には自分の学問をすっかり私に、
書物でばかりでなく談話においても披露することを辞せぬ
ありとあらゆる学問分野の学者達自身と接することが出来たという事実のおかげで、

私は 学問がおよそ人生問題に答え得るところの全てを知ったのである。

私は永い間どうしても、学問というものが人生問題に対して
現在答えているようなこと以外には、
何も答え得ない ということを信ずることが出来なかった。

永いこと私には、実人生の諸問題と何らかかわりのない
その諸命題を説き立てる科学の、物々しい、勿体ぶった調子に眼を注いで、
自分は何か理解し損っているのではないかという気がした。

永いこと私は学問に対しておじ気を懐(いだ)き、
学問の与える答えが 私の疑問にぴったりしないことの原因は、
学問のせいではなくて、私の無理解のせいだという気がした。

でも 事は私にとって冗談半分でもなく、気なぐさみでもなく、
全生活の問題だった。 

そこで私はいや応なしに、

私の疑問こそ、あらゆる学問の土台となるべき当然の問題であり、

こうした疑問を持つ私が悪いのでなくて、

もしも科学がおこがましくも これらの疑問に答え得るとするならば、

その方にこそ罪はあるのだ という確信に達したのである。



私の疑問-- 50歳の時 私を自殺に導こうとした--は万人の胸中に、

物心つかぬ幼児から最も聡明な老人にいたる万人の胸中に横たわる、

最も単純な疑問であって、

私が実際に経験したように 

それなしでは 人生そのものが不可能であるところのものである。

その疑問というのは 次のようだった。

《私が今日なすこと、明日なすであろうことから 何が生ずるのか?

-- 私の全生涯から 何が生れ出るのか?》



この疑問を別な風に言い現わせば、次のようになるであろう。

《一体なぜ、私は生きて行くのか? 
なぜ何かを望むのか?なぜ何かを為すのか?》


もっと別な言い方をすれば、次のようにも言える。

《私の生に、どうにものがれようのない、
そして目前に迫っている死によって滅ぼされない、


なんらかの意味があるのだろうか?》



この、表現こそ様々でも唯一つである疑問に対する答えを、
私は人間の学問の中に探した。


そして私は この疑問に対して あらゆる人間の学問は、

いわば向い合う二つの半球にわけられていて、

相対する尖端に各々 南極北極があるという具合なのを発見した。

一つは否定的な、他は肯定的な。

然しながら 否定肯定いずれの極にも、

人生問題に対する答えはなかったのである。



一方の系列の学問は、いわば問題の存在を認めないで、

その代り それに頓着(とんちゃく=深く気にかけてこだわること)なく
自分で提起した問題に、明白かつ正確に答える。

それは経験科学の系列で、その尖端には数学がある。

も一つの学問の系列は、問題の存在を認めるけれども、
それに答えることをしない。

それは思弁的学問の系列で、その尖端には形而上学がある。



ずっと若い頃から、私は思弁的学問に興味を覚えた。

でもその後、数学や自然科学が私を魅惑した。

そして私が自分の疑問をはっきり自分に提起しない間は、
この疑問が切実になって来て、
執拗(しつよう)に解答を迫るということがなかったその間は、

私が学問が与えるそれらの問題解答の模造品で満足していたのである。

で経験科学の分野で言えば、私は自分に次のように言いきかせた。

《万物は発展し、分化し、高等化し、完成へと向って行く。
そしてその運行を導く諸法則がある。お前は全の中の個である。
可能な限りこの全を認識し、また発展の法則を認識すれば、
お前はこの全におけるお前の位置、
そしてまた お前自体を認識することが出来るのだ》と。


白状するのが恥ずかしいくらいだけれども、
まぁこれくらいのところで満足していた時代が 私にあったのである。

それは 私自身がまさに成熟し発達しつつある時代だった。

私の筋肉は発育し、強健になり、記憶力は豊かになり、
思考力と理解力は増大していた。


私は成長し、発達していた。

そしてこの成長を身内に感ずる私が、
これこそ、私がその中に私の人生の諸問題の解決をも発見できる、
全世界の法則だと考えたのも 無理はなかったのである。

でも 私の中の成長が停止する時がやって来た。

私は自分が発達しているのではなく、萎縮(いしゅく)しつつあるのを感じた。

筋肉の力は弱まり、歯は脱(ぬ)けはじめたのだ。

そこで私は、この法則が私に何も納得の行く説明を与えないばかりか、

どだいそんな法則もありもしなかったし、あるはずがないし、
生涯の或る特定の期間に自分の中に見出したものを、
法則と思い過しただけの話ということが分った。

そこで私は もっと厳正な態度で、この法則を裁定して見ようとした。

そしてその結果、無限の発展の法則など あり得ないことがはっきりした。

また、無限の空間と時間の中で
万物は発展し、完全化し、高等化し、分化するなどと言ってみても
--- それはただ空言(そらごと=うそ)を弄(もてあそ)んでいるにすぎない
ということが はっきりした。

そんなものはみんな-- なんら意味を持たぬ言葉にすぎない。

なぜなら、無限の中には
複雑なものとか単純なものとか前とか後とか、
良いとか悪いとかいったものは ないのだから。

5-2 学問--人生問題への適用には向かない

何よりも肝心なことは、私の個人的な疑問
--このもろもろの願いを持つ私とは 一体何であるのかということ--に対しては、

まるでもう 解答が与えられないのである。

そこで私は、これらの学問は大変興味深く、また 魅力的であるけれども、

これらの学問が正確かつ明白であればあるだけ、

どうも人生問題への適用には向かないことを悟った。

それらの学問の人生問題への適用度が少なくなるにつれて、
正確さと明白さが増大する。

それが人生問題の解決を与えようと試みれば試みるほど、

ますます曖昧(あいまい)な、色褪(いろあ)せたものになって行くのだ。

人生の諸問題に解決を与えようとするこれらの学問の分野--生理学、
心理学、生物学、社会学 といったものに眼を転ずれば、

直(ただ)ちに呆(あき)れるばかりの思想の貧困、とてつもない曖昧さ、

柄にもなく問題を解決したつもりのまるで不当な僭越沙汰(せんえつざた)、

そして1人の思想家に対する他の思想家達の対立抗争、

否、自分自身との矛盾撞着(むじゅんどうちゃく=矛盾に突き当たること)
といったものまで眼につくであろう。

一方 人生問題の解決には手を染めないで、

ただ自分の学問的専門的な問題に答える学問分野に眼を向ければ、

人間の知力というものに驚嘆せずにはいられないが、
然し前もって、人生問題への解答がないことが分っているのである。

これらの学問は、まるで人生問題を無視しているのだ。

彼らは言う。

《お前が何者で、なんのために生きているのかということは、

我々として答えられないし、そんな事を研究しているのでもない。

でももしお前が、光の法則、化合の法則、
あるいは有機体の発達の法則について知りたいと思うならば、

また人体とその組織の法則、数と量との相関関係の法則が知りたければ、
更にまたお前の心の動きの法則が知りたいならば、

そうしたことなら何でもはっきりした、
正確な、疑う余地のない答えを持ち合わせている》と。



経験科学の、人生問題に対する関係を要約すれば、次のようになるであろう。

問: なぜ私は生きているのか?

答: 無限に広がる空間と、無限につづく時間の中で、無限小の微分子が、
無限の複雑さで変化している。で、お前がこの変化の法則を理解するならば、
その時なぜお前が地上に棲息(せいそく)するか分るだろう。



一方 思弁的学問の分野において、私は次のように自分にいうのだった。

《全人類は 己れを導く精神的本源、精神的諸理想の基礎上に生活し進展して行く。
これらの諸理想は 宗教に科学に、芸術に、政治形体に反映する。
これらの諸理想は 常に向上に向上を続け、
ついには人類は 最高の福祉に到達する。この私は人類の一分子である。
だから私の使命は、人類の諸理想の自覚と現実に協力することにあるのだ》と。

そういう訳で私は 皮相的に物を考えていた間は、こんなことで満足していた。

然し人生問題がはっきりした形で胸中に生ずるや否や、

そんなセオリー(theory= 理論。学説)など
ことごとく瞬時にして潰(つい)え去るのだった。


この種の学問が、人類のほんの小部分の検討から導き出した結論を、
全般的結論であるかの如く称する いかがわしい不正確さは問わぬとしても、

また人類の理想が何に存するかに関して、種々の陣営の人達の見解が
互いに対立していることは問わぬとしても、

この種の見解のきてれつさ(いっそ馬鹿々々しさ と言いたいくらいだが)は、

各人の前にたちはだかる《私は一体何者か?》
あるいは《なぜ私は生きているのか》
あるいは《私は何を為すべきであるか?》という疑問に答えるためには、

各人は予(あらか)じめ《或るごく短期間の、或る微小な部分しか知らぬ、
未知なる全人類の生活とは何か?》を解決する必要がある、という点にあった。

彼が 自分は何者であるかを理解するためには、
人は前以(まえもっ)て、彼と同様 自分自身を理解しないでいる人達からなる
この神秘な全人類とは何か、を理解しなければならない という訳である。

5-3 哲学はそれに答えない

白状すれば、 そういったことを信じていた時期が 私にもあったのである。

それは 自分の恣欲(しよく)を
あたかもジャスティファイ(justify=正当化)する お気に入りの理想があった時期で、

私は自分の恣欲を
あたかも人類の法則かのように見なし得るセオリーを考えつこうと努力していた。


然し私の胸中に人生の疑問がすっかり鮮明になるや否や、

こうした解答は 風の前の塵(ちり)のように吹き飛んでしまった。

そして私は、経験科学の中にも 真の科学と、
自分の領分でない問題に解答を与えようとする擬似(ぎじ)科学があるように、


思弁的学問の領域にも、
柄にもない問題に答えようと努める 最も通俗的な学問の系列が、
長々とつらなっているということが分った。

この部門の擬似学問--法律学、社会--歴史学、といったもの--は、

それらがてんでに全人類の問題のひとりよがりの解決をすることで、

生(な)まの人間的問題を解こうとしているのだ。



しかしながら経験科学の領域においても、

自分がいかに生く可(べ)きかを真剣に問う者にとって、

《無限の空間の中で、無限の時間に無限の複雑さをもって変化する、
無限の諸分子について研究せよ、
そしたら自分自身の生が理解できるだろう》 という解答では、満足出来ないように、

---まさにそのように、真摯(しんし=まじめで熱心)な人間には、

我々がその起源も終末も知ることの出来ない、
またそのほんの一部をも知らないところの全人類の生活を研究せよ、

そしたら自分の生というものが理解できよう、

などいう答では 満足出来っこないのである。

そしてまた、擬似経験科学の場合と全く同様に、これらの擬似学問は、
それらが自分の課題からそれればそれるだけ、
曖昧さと不正確さと 愚劣さと矛盾撞着とに充たされて来る。

経験科学の課題は、物質界の諸現象の因果論的考察にある。

経験科学が窮極原因の問題を持ち出すや、まるで たわごとがでっち上がる。
思弁的学問の課題は、因果律を超えた生命の本質を認識することにある。
社会的とか歴史的とかの、因果の世界の現象の考察を取り込むや、

これまた たわごとにすぎなくなる。



経験科学は、それが窮極原因をその研究の対象にしない場合のみ、
実証的な知識を与え、人智の偉大さを示してくれる。

ところが反対に 思弁的学問においては、

それが因果律下の諸現象の関連性を完全に離れて、
人間をただ窮極原因との関係において観察する場合にのみ、
人智の偉大さを示すのだ。

それこそ思弁的学問の分野においてその分野の極をなすもの--
即ち 形而上学 あるいは哲学に外ならない。

この学問は はっきりと《我及び世界は一体何者であるか?》
《なんのために私は存在し、また全世界は存在するのか?》
という疑問を提起する。

そしてその学問は その発生以来、常に同じ答えをして来た。

哲学者が我の中に、そしてあらゆる存在者の中にある生命の本質を

理念とか、実体とか、精神とか、意思とか、どんな風に呼ぼうと、

彼はただもう この本質が存在し、我もその本質そのものである
ということだけを言う。

然しながら、なぜ本質なぞ いうものがあるのか、

ということは 哲学者も知らないし、

もし彼が厳正な思想家であれば、それに答えたりしないのだ。

《なぜそんな本質が存在するのか?それが存在し、
また存在するであろうことから 何が招来(しょうらい=もたらす)されるのか》

と私は問う。

すると哲学はそれに答えないのみか 自分でもそれを問いかえす始末である。

そしてまたそれが 真正(しんせい=本物)の哲学であるならば、

その全機能は この疑問をはっきり提起することにのみある訳である。

そしてまた、それが己れの課題を固守する限り、

《我及び全世界は何者であるか?》との問いには《一切であり、無である》
とより外はには、また《一体何のために?》との問いには
《何のためって----それは分らない》とより外に答え得ないのである。

かくて哲学が与える思弁的解答をどんなにひねくり廻しても、

私は何ら解答らしきものを得ることが出来ない。

それも明晰(めいせき)な経験科学の領域におけるように、

解答が私の疑問と無交渉であるからでなく、

哲学においては

全知的活動がまさに私の疑問に向けられているのだけれど、

解答が存在せず、

解答の代わりに ただ複雑な形式の またぞろ同じ疑問が生ずるからである。

6-1 偶然肉体の形をとった何かの固形物

人生問題の解答を探し求めながら、

まるで私は 森林の中に迷った人が味(あじわ)うような、そんな感じを経験した。

森の中の空地(あきち)に出て、木によじ登って、
そこからはっきりと無限の広がりを見る。

でも その方面には人家は無く、
またある筈もないことを見てとる。

そこで彼は 森の茂みに、暗闇の中にわけ入って、
そこはやっぱり暗闇で、家なんかとてもありはしないことが分る。



こんな風に私は 世俗的学問の森林の中で、
私に明るい地平線をひらいてくれた、然しその方面には
人家はあり得ない といった風の、数学的・経験科学的学問の光と、

進めば進むほど ますます暗さを増して、とうとう出口はないし、
また あるはずがないと確信するまでになった思弁的学問の闇に挟(はさ)まって
迷ったのである。



学問の明晰な側面に没頭してみて、
私はそれが問題に眼をつむる所以(ゆえん=理由)であることを悟った。

私の視界にひらける地平線が どんなに魅惑的で明るくっても、

この果(はて)しない学問の海に浸ることに どんなに魅力を覚えても、

私にはも早や、これらもろもろの学問は、

それが明晰なものであればあるだけ 私にとって無用であり、

私の疑問に答えてくれない ということが分ったのである。



科学がこうも躍起になって知ろうと望んでいることは、みんな私には分っている。

--と、こう私は自分に言うのだった。

--でもこの方面には、私の生の意義如何の問いに答える解答がないではないか。

一方 思弁的学問の領域では、その学問の目的が
直接私の疑問への解答に向けられているにもかかわらず、
あるいは 向けられているからこそ、

私が自分に与えた解答、

つまり 《私の生にはどんな意味があるか?-- どんな意味もない》
あるいはまた
《私の生から何が生ずるか?-- 何にも生じない》
更にはまた、
《全ての存在するものは、何のために存在するのか?
--またこの私は何のために存在するのか?--存在するから存在するのだ》

といった類(たぐい)のもの以外には、何らの解答もないことを悟った。



世俗的学問の一方の側に問えば、
私がたずねもしない無数の事についての 精密な答えが返って来た。

即ち 星の化学的成分とか、ヘラクレス星座に向っての太陽の運行とか、
種及び人類の起源とか、エーテルの無限小の、
量ることも出来ない分子の形態とかいったものである。

でも 《私の生存の意味は何か?》という私の問いに対する、
この学問の領域での答えはただ一つ

---お前はお前が自分の生命と呼ぶところのその者である。

お前は 一時的の、偶然な微粒子の結合にすぎない、ということなのだ。

これらの微粒子の相互作用と変化が、
お前の中にお 前が生命と呼ぶところのものを生ぜしめる。

この結合は 一定の時間持続するが、その後 その相互作用は止んで、

同時にお前が生命と呼ぶものも止み、もろもろのお前の疑問も消えてなくなる。

お前は---偶然肉体の形をとった何かの固形物にすぎない。

この固形物は ぶつぶつと泡を立てる。

この泡立ちを自分の生命と呼ぶのである。

が、やがてこの固形物も分解し、泡立ちも全ての疑問も消失するのだ。

世俗的学問の明晰な実証的な側面は 以上のように答えるだけで、

正確に自分の原則に従う限り、それ以外の答えをすることは出来ない。



こうした答えでは、問題に対する答えにならないことが分る。

私には 自分の生存の意義を知る必要があるのに、

それが無限なるものの一部であるなどというのは、

それが私の生存の意義を与えないどころか、

あらゆる可能な意義を 踏みにじってしまうのだ。



こうした経験的実証的な学問が、思弁的なそれとこね合わされて、

生存の意義は 人類の発展と、その発展への協力にあるなどと言い出しても、

そんな不正確な曖昧なものを解答と認める訳には行かない。

6-2 ソクラテス、ショーペンハウエル、ソロモン

もう一つの思弁的学問の側では、

もしそれが自己の原理に忠実であれば、
その疑問に対して 直接答える場合、

いかなる場所 いかなる時でも ただ一つしか答えられないし、
また そう答えて来た。

それは、世界は無限の、理解を超えた何者かである ということである。

人間の生命は、この捕捉し難い部分である という訳なのだ。

ここでも私は 思弁的学問と経験科学との混合物、

いわゆる法律的、政治的、歴史的といった、
擬似学問のがらくたをでっち上げているものを除外して考えることにする。

これらの擬似学問では、又ぞろ進化とか、完成とかの観念が不正に導入されている。

ただ区別すれば 前の場合は森羅万象の進化発展、
この場合は 人間の生命のそれというだけである。

然し両者とも、不当なことはなんら変りない。

無限の中の進化とか 完成とかには、何らの目標も方向もあり得ないし、

私の疑問に対しては 何も答えてくれないのである。



思弁的学問が正確であるところ、つまり真正の哲学においては、

---ショーペンハウエルがプロフェッサーの哲学と呼んだ、
あの、全ての眼前の現象を 新しい哲学的分類法で分類して、
それを新しい名称で呼ぶことだけにしか役立たぬものでなく、
---哲学が本質的な問題から眼を離さぬところでは、
常に答えは ただ一つ、ソクラテス、ショーペンハウエル、ソロモン、仏陀によって
与えられたところの答えに外ならない。

《我々は 生から遠ざかれば遠ざかるだけ、それだけ真理に近づく》

--とソクラテスは死に臨(のぞ)んで言う。

《真理を愛する我々は、人生において何を目指すか?肉体と、
そして肉体生活から生ずる全ての悪から解放されることではないか。
若(も)しそうなら、死が我々の所にやって来た時、
どうして喜ばずにいられよう?》

《賢者は生涯 己れの死を探し求める。それ故 死は、
彼にとって 恐怖ではないのである。》



次に ショーペンハウエルは言う。

《世界の肉的本質を意思として、また自然の暗黒な力の無意識的衝動から、
意識に充ちた人間の活動に至るあらゆる現象の中にあるものと認識するならば、
この意思だけが実在であると認めるならば、我々は どうしても意思の自由な否定、
意思の自己否定と共に すべてのそれらの現象、その中に、
そしてそれによって世界が成立するところの、実在の各段階における目的も休息も
なき絶えざる突進や衝動も消失し、系列的諸形式の種々相も消失し、
その形と共に、それを包摂する普遍形式としての、空間と時間における諸現象も消失し、
遂にはその根源的形式、
つまり主体と客体も消失するという結論を避けることは出来ないであろう。

意思がなければ表象もなく、したがって世界も存在しない。
我々の前には 勿論 虚無のみが残る。
然しこの虚無への移行を受容しようとしないもの、つまり我々の中の自然こそ、
我々自身と我々の世界をつくっているところの、”生きんとする意志”》
に外ならない。

我々がかくも虚無を恐れるということ、換言すれば かくも生きんと欲することは、
我々自身が生きんとする欲望そのものであり、
それ以外のことは 何も分らないといった、まさにそういう意味なのである。

それ故 まだ色々の意思で充(みた)されている我我にとって、
意思が完全に絶滅した暁(あかつき)に残るものは、
言うまでもなく 虚無である。

然し反対に、その人の中で意思に変化を生じ、
意思が自らを棄却したような人々にとっては、
この我ら、太陽や銀河を持つ、かくもリアルな世界も虚無にひとしいのである。》



『空の空』とソロモンは言う。

『空の空なる哉(なり)--凡(すべ)て空なり!日の下に人の労して為すところの
諸々の動作(はたらき)はその身に何の益かあらん。世は去り世は来る、
地は永久(とこしえ)に存(たも)つなり...。さきにありし者はまた後にあるべし。
さきに成りし事はまた後に成るべし。日の下には新しき者あらざるなり。
「見よ、是は新しき者なり」と指して言うべき者あるや。それは吾らの前(さき)に
ありし世々に既に久しく在りたるものなり。
巳前(まえ)のものの事はこれを憶(おぼ)ゆることなし。以後(のち)のものの事も
また後に出ずる者 これを憶ゆることあらじ。われ伝道者は、イエルサレムにありて
イスラエルの王たりき。我が心を尽し知恵を用いて、天が下に行わるる諸々のことを
尋ね且つしらべたり。此の苦しき労作(わざ)は、神が世の人に授けて
これに身を労せしめ給うものなり。われ日の下に為さるる諸々の行為(わざ)を見たり。

あゝ、みな空にして風を捕うるが如し... われ心の中に語り言う。
あゝ我は大いなる者となれり、我より先にイエルサレムに居りし凡ての者よりも
我は多くの智慧を得たり。 吾が心は智慧と知識との多くを得たり。

われ心を尽して智慧を知らんとし、狂妄と愚痴とを知らんとしたりしたが、
これも又 風を捕うるが如くなるを暁(さと)れり。それ智慧多ければ悲痛(かなしみ)多し。
知識を増す者は憂患(うれい)を増す。



われ我が心に言いけらく、来れ、われ試みに汝を喜ばせんとす。
汝逸楽を極めよと。--あゝされど、これもまた空なりき。
われ笑に就いて言う。これ愚なり。快楽について言う、これ何のなすところあらんや?と。
われ心に智慧を懐きて居りつつも、酒をもってわが肉身を肥やさんと試みたり。

また世の人は 天が下において、生涯如何なる事を為さばよからんかを知らんが為に、
われは愚かなるわざを行うことをなせり。我は大なる事業を為せり。
我は我が為に家を建て、葡萄園を設け、園を作り、庭を作り、
また果実のなる諸々の樹を其処に植え、また水の溜池を作りて、
樹樹の生い繁(しげ)れる林にそれより水を灌(そそ)がしめたり。
我は僕婢(=下男と下女。召使い)を買い得たり。
また家の子あり。我はまた凡て我より前(さき)にイエルサレムに居りし者よりも
衆多(おおく)の牛羊を持てり。
我は金銀を積み、王等(おうたち)と国々の財宝(たから)を積み上げたり。

また歌うたう男女を得、世の人の楽(たのしみ)なる妻妾を多く得たり。

斯(か)く我は大なる者となり、
われより先きにイエルサレムに居りし凡ての人よりも 富裕になりぬ。

我が智慧も亦(また)わが身を離れざりき。
---我はわが手にて為したる諸々の事業(わざ)
及び我が労して事を為したる労苦を顧(かえりみ)るに、みな空にして
風をとらうるが如くなりき。

日の下には益となるものあらざるなり。

我また身を転じて智慧と狂妄と愚痴とを観たり。---

われ知る、凡てのものの遇(あ)うところは同一なり。

我わが心に言いけらく、愚者のあうところの事に我もまたあうべければ、
われ何ぞ智慧のまさるところあらんや。われまた心に言えり、これも亦(また)
空なるのみと。 それ智者も愚者とひとしく、永く世に記憶さるることなし。

来らん世にいたれば、皆早く既に忘らるるなり。
あゝ! 智者の愚者と同じく死ぬるはこれ如何なる事ぞや。
ここにおいてわれ世に存(ながら)うる事を厭(いと)えり。

凡そ日の下に為すところの事業(わざ)は、われに悪しく見ゆればなり。

即ちみな空にして風をとらうるが如し。

我は日の下にわが労して諸々の動作(はたらき)を為したるを恨む。

それは我の後をつぐ人にこれを残さざるを得ざればなり。

---それ人は、日の下に労して為すところの諸々の動作と
その心労(こころづかい)によりて、何の得るところあるや? 

その世にある日には 常に憂患(うれい)あり、その労苦は苦し。

その心は夜の間も安んずることあらず。

これまた空なり。 人が飲食(のみくい)を為しその労苦(ほねおり)によりて
心を楽しましむるは幸福なる事にあらず、これも亦(また) 神の手より出ずるなり。
われこれを見る。---』

『凡ての人に臨(のぞ)むところは皆同じ。義しき者にも悪しき者にも、
善き者にも来よき浄(きよ)き者にも穢(けが)れたる者にも、
犠牲(いけにえ)を献(ささ)ぐる者にも、犠牲を献(ささ)げぬ者にも、
その臨むところの事は同一(ひとつ)なり。善き人も罪人に異ならず。

誓を為す者も誓を為すことを畏(おそ)るる者に異ならず。

凡ての人に臨むところの事の同一(ひとつ)なるは、
それ日の下に行わるる事の中の悪しき者たり。

そもそも人の心には悪しきもの充ちており、その生ける間は心に狂妄を懐(いだ)き、
かくて後 死者の中に往(い)くなり。』

『凡そ活ける者の中に列(つらな)る者には望みあり。
そは生ける人は 死せる獅子にまさればなり。
生者(いけるもの)は その死なんことを知る。

されど死せる者は 何事をもまた知らず、酬(むくい)を受くることも重ねてあらず、

その憶えらるる事も 終に忘らるるに至る。

その愛(いつくしみ)も憎しみも嫉(ねた)みも既に消え失せて、

彼らは日の下に行わるる事に最早何時の世までもかかずらうことあらざるなり。』

こうソロモンは、あるいは この言葉を書いた人は言っている。

6-3 「生は最大の悪」と断じた釈迦牟尼

では更に 印度の賢者がどんなに言っているかを見よう。

それまで病いも老いも、死も知らされてなかった
若い幸福な皇子釈迦牟尼(しゃかむに)は、

或る日馬車で外に出かけ、歯が脱(ぬ)けてしまって、涎(よだれ)をたらしている、
ぞっとするような一人の老人を見た。

老いというものを その日まで見たことのなかった皇子は驚いて、
馭者(ぎょしゃ=馬車を走らせる人)に、
なぜあの男はあんな無残な醜悪な有様になったのかを尋ねた。

そして彼は それが万人共通の運命であり、
若き皇子である彼にも のがれ難い同一の運命が待ち伏せていることを知り、

もう出遊びする気もなくなって、そのことについて熟思するために馬車を返えさせた。

そして彼は、ひとり部屋に閉じこもって 沈思黙考(ちんしもっこう)する。

そして多分 何らかの慰めを考えついたのでもあろう。。

というのは、彼は再び快活な幸福な気分で馬車を外に駆るのである。

ところが今度は 彼は病人に出会う。

彼はやつれて蒼(あお)ざめた、体をぶるぶるふるわせている、
両眼とも どんより濁った男を見る。

病気というものをしらされていなかった皇子は立ち止って、

一体それは何であるかをたずねる。

そしてそれが、あらゆる人に襲いかかる病気というもので、

健康で幸福な皇子である彼自身、
明日にもこんな風に病むかもしれないことを知った時、

またもや遊び廻る気がしなくなり、

馬車を返させて、再び心の落着きを探し求める。

そして多分 それを発見したのでもあろう。

彼は三度(さんたび)馬車で出遊するのである。

ところで三度目に 彼は更に新奇な光景を見る。

彼は みんなが何かを運んで来るのにぶっつかる。

《これは何か?》--死人でございます。--《死人とは何のことか?》と皇子は問う。

彼に、死人になるというのは、この男が今なっているような姿になることだと説明する。

皇子は死人に近寄り、蔽布(おおい)をはぐってそれを見つめる。

《この男はこれからどうなるのか?》と皇子はきく。

この男は、土を掘って そこに埋めますと答える。

《一体なぜだ?》-- きっともう今さら生き返らないでございましょうし、

ただもう悪臭と蛆(うじ)が発生するだけでございますから。--

《これは全ての人の運命なのか?私にもそんなことが起るのか?
私を土に埋め、私の体から悪臭が生じ、蛆虫がそれを餌食にするのか?》

--御意(ぎょい=目上の人に対して、同意・肯定を示す返事の言葉)にございます。

《馬を返せ!出遊(しゅつゆう)は取り止めじゃ。今後共に 一切取り止めじゃ。》



かくて釈迦牟尼は 生に慰安を見出すことが出来なかった。

そこで彼は 生は最大の悪であると断じ、

自分自身も他人も 生から解脱(げだつ)せしむることに全精力を注いだ。

しかも 死後において生がふとして蘇(よみがえ)ることのないように、

生を全面的に根源から絶滅せしめようと願ったのである。

このことは、すべての印度の聖賢(せいけん=聖人と賢人)の説くところである。

つまり 以下にあげるものが、
人間の智慧が人生問題に答える際の 真っ正直な解答なのだ。

《肉体の生は悪であり、虚偽である。故にこの肉体の絶滅は善であり、
我々は それを望むべきである》とソクラテスは言う。

《生とは、もともとあるべからざるもの、即ち悪であり、
無への移行は 人生唯一の善である》とショーペンハウエルは言う。

《此の世の凡て、愚も賢も、富も貧も、喜悦(きえつ)も悲嘆も、
--凡てこれ 空の空にして 無価値なり。人は死す、しかして何物をも
あとにとどむるなし。これまた愚かしき限りならずや》とソロモンは言う。

《苦悩と衰弱と、老いと死の不可避性を意識しながら生きて行くことは出来ない。
--己れを生より、凡(あら)ゆる可能性より解脱せしめねばならない》と仏陀は言う。

そしてこれらの卓越した聖賢達が言ったことを、同様に 幾百幾千万人の人達が言ったり
考えたり 感じたりして来た。 そしてかくいう私も それを思い それを感ずるのだ。



こうして学問の森の彷徨(ほうこう=さまようこと)は、

私を絶望の念から救い出さなかったばかりか、

むしろ それを強めた。

一つの学問は 人生問題に答えなかったし、

もう一つの学問は 真っ直ぐに答えているのだが、

私の絶望を 尤(もっと)もだとし、

私が到達した所は 私の迷い あるいは 私の病的精神状態のせいではなく

反対に 
私が人類の尤も卓越した賢者達と同じ結論に達したのだ ということを示すのである。


自分を欺(あざむ)いて見ても 始まらない。

凡(すべ)ては--- 空である。

生れざりし者は 福(さいわい)なる哉(なり)。

死は生より望ましい。

だから 生から脱出しなければならない。

7-1 ソロモンの快楽主義

学問の中に説明が見つからなかったので、

私はその説明を人々の生活の中に探し始めた。

それが私の周囲に暮す人々の中に見当るのではなかろうか と思ったのである。

私は自分と同種の人々を、彼らが私の周囲でどんな暮し方をしているか、
私を絶望に導いたその問題を どう扱っているかを観察し始めた。



そこで私が教養とか生活形態の点で 
私と同じ状態にいる人達の間に見出したものというのは次のことである。

私は 我々仲間の人達にとっては、
我々みんなが置かれている恐ろしい境遇からの脱路が四つあることを発見した。



第一の脱路は 無知のそれである。

それは 人生が悪であり無意味であることを、知りもせず理解もしないことの中に存する。

この種の人々-- 大部分女性あるいは大変若い、または大変愚鈍な人達--は
まだショーペンハウエルやソロモンや仏陀が直面した人生問題を理解していなかった。

彼らは 竜も見ず、
自分がつかまっている灌木を齧る鼠も見ないで、蜜の滴を嘗めている。

然し彼らがその蜜の滴を嘗めるのも、ただ 束の間にすぎない。

何かが彼らの注意を竜や鼠に向けさせるや、
もう 蜜を嘗めるのはおしまいである。

私には 彼らに学ぶべきものは何もない。

知っていることを知らないようになる訳には行かないからである。



第二の脱路は--快楽主義のそれである。

それは 人生の絶望性を知りながら、さしあたってすぐ眼の前の幸福を味わうこと、

竜も鼠も見ないで、 なるべくうまく 蜜を嘗めること、

ことに蜜がうんとたまった時は そうする事の中にある。

ソロモンは この脱路を次のように言い表わした。

《茲(ここ)において我は 快楽を讃美す。
そは飲食して楽しむにまさること日の下にあらざればなり。
人の労して得る物のうち、
これこそはその日の下にて神に賜(たまわ)る生命(いのち)の日の間、
その身を離れざる物ぞかし....
汝(なんじ)行きて歓喜(よろこび)をもって汝の麺麭(パン)を食し、
楽しき心もて汝の酒を飲め、

日の下に汝が賜わるこの汝の空(くう)なる生命(いのち)の日の間、
汝その愛する妻共に喜びて暮せ。汝の空なる生命の日の間、
斯(か)くてあれよ。是(これ)は汝が世にありて受くる分にして、
汝が日の下に働ける労苦によりて得るものとなればなり。
凡(すべ)て汝の手の堪(こた)うる事は、力をつくしてこれを為せ。
蓋し(けだし=思うに)、汝の赴(おもむ)く陰府(よみのくに)には、
労働も思索も、知識も智慧もあらざればなり。》



かくて我々仲間の人々の大部分が、自分の中に生の可能性を保持して行く。

彼らが置かれている境遇は、
彼らに禍(わざわい)よりもより多く福を与えるように出来ているし、

またうまい具合に彼らの精神的な魯鈍(ろどん=愚鈍)さが彼らに、

彼らの境遇の有利さは 偶然にすぎないこと、
誰でもがソロモンのように 千人の妻や宮殿を持つわけに行かないこと、
千人の妻を持つ男一人に対して 妻を持たぬ男が千人いること、
ひとつひとつの宮殿に対して 汗しながらそれを建てる千人の人間がいること、
そして今日 私をソロモン王のような境遇においた偶然が、
明日はまた 私をソロモンの奴隷にするかもしれないことなどを
忘れさせている始末である。

これらの人々の想像力の鈍さは 彼らに、

仏陀に安き心を与えなかったところのもの、病・老・死の避け難さ、
今日、でないなら明日にも 
あらゆるこれらの逸楽(いつらく=気ままに遊び楽しむこと)を
破壊し去るところのものを 忘れさせているのだ。



我々と同時代の、生活様式が同じ人々の大部分が
こんな風に考え また感じている。

これらの人人のうちのある者が、
彼らの思想と想像力の魯鈍さを、
実証主義という名の哲学であるなどと強弁しても、

私の眼には 彼らも、問題に眼を瞑(つむ)るために、

蜜を嘗める手合いと なんら区別はないのだ。

私は 彼らに従うわけには行かなかった。

彼らの如(ごと)き想像力の貧困を持ち合わせぬ私は、

人工的にそれを自分の中につくり上げることは出来なかった。

私もあらゆる生きた人間並みに 一度 鼠や竜を見てしまうと、

どうしても それから眼を離すことが出来なかったのである。

参照: 鼠と竜 蜜 4-2 馬鹿みたいにぼんやりと頂点に立っている