10-3 生きて行くのが容易になって来た

我々の仲間においては、

静かな死、恐怖も絶望もない死 というものは、

それこそ稀(まれ)な例外であるのに反して、

民衆の間では、

静かでない、従順でない、喜ばしくない死の方こそ

非常に稀な 例外だった。

こうした人達、私やソロモンのような人にとっては

それのみが この世の幸福であるようなものを 何一つ与えられず、

しかも そこに最大の幸福を味わっている といった人達は、

---それこそ莫大な数にのぼった。



私は 更に広く 自分の周囲を見廻した。

私は 過去及び現代の、非常に莫大な数の民衆の生活を眺めて見た。

そして そんな風に生の意味を悟った、
生き かつ 死するすべを弁(わきま)えた人々が、

2百万や 3百万や 千万でなく、
何億 何十億といることを知った。

そして彼ら、気質、智能、教養、境遇において千差万別(せんさばんべつ)の人々が

みんな一様に、私の無識(むしき=見識や知識のないこと)と反対に
生と死の意味を知り、静かに勤労し、困苦欠乏(こんくけつぼう)に堪え、
そこに虚無でなく 善を認めながら生き かつ死んで行ったのである。



そこで私は こうした人々が好きになった。

私が彼らのうちの生きた人達の生活と、

それについて読んだり聞いたりしたところの、

今は亡き人達の生活を吟味(ぎんみ=念入りに調べること)すればするほど、

私は ますます彼らが好きになり、

私自身も生きて行くのが だんだん容易になって来た。

こうして 二年ばかりすごすうちに、私の中に 大転換が生じた。

それはもうずっと以前から私の中に用意されていたのであり、

その素質は かねがね私の中にあったものである。

つまり 我々仲間--- 富裕な、学問ある---の生活が
私にとって忌(い)まわしくなったばかりでなく、


すっかり意味を失ってしまうという事態が生じたのである。

あらゆる我々の活動、思索、学問、芸術

--- こうしたものが ことごとく私にとって今までと違った意味を帯びて来た。

私には およそそんなものは児戯(じぎ=幼稚なこと)にひとしく、

その中に意味を求めることなど出来はしない ということが分った。

生を創造して行くところの、全勤労大衆の、全人類の生活は、

私にとってその本来の意味を帯びて現れて来た。

そして私は、これこそまさに生活そのものであり、

この生活に与えられる意味こそ真理であると悟り、

その真理を受け容れたのである。