我々の仲間においては、
静かな死、恐怖も絶望もない死 というものは、
それこそ稀(まれ)な例外であるのに反して、
民衆の間では、
静かでない、従順でない、喜ばしくない死の方こそ
非常に稀な 例外だった。
こうした人達、私やソロモンのような人にとっては
それのみが この世の幸福であるようなものを 何一つ与えられず、
しかも そこに最大の幸福を味わっている といった人達は、
---それこそ莫大な数にのぼった。
☆
私は 更に広く 自分の周囲を見廻した。
私は 過去及び現代の、非常に莫大な数の民衆の生活を眺めて見た。
そして そんな風に生の意味を悟った、
生き かつ 死するすべを弁(わきま)えた人々が、
2百万や 3百万や 千万でなく、
何億 何十億といることを知った。
そして彼ら、気質、智能、教養、境遇において千差万別(せんさばんべつ)の人々が
みんな一様に、私の無識(むしき=見識や知識のないこと)と反対に
生と死の意味を知り、静かに勤労し、困苦欠乏(こんくけつぼう)に堪え、
そこに虚無でなく 善を認めながら生き かつ死んで行ったのである。
☆
そこで私は こうした人々が好きになった。
私が彼らのうちの生きた人達の生活と、
それについて読んだり聞いたりしたところの、
今は亡き人達の生活を吟味(ぎんみ=念入りに調べること)すればするほど、
私は ますます彼らが好きになり、
私自身も生きて行くのが だんだん容易になって来た。
こうして 二年ばかりすごすうちに、私の中に 大転換が生じた。
それはもうずっと以前から私の中に用意されていたのであり、
その素質は かねがね私の中にあったものである。
つまり 我々仲間--- 富裕な、学問ある---の生活が
私にとって忌(い)まわしくなったばかりでなく、
すっかり意味を失ってしまうという事態が生じたのである。
あらゆる我々の活動、思索、学問、芸術
--- こうしたものが ことごとく私にとって今までと違った意味を帯びて来た。
私には およそそんなものは児戯(じぎ=幼稚なこと)にひとしく、
その中に意味を求めることなど出来はしない ということが分った。
生を創造して行くところの、全勤労大衆の、全人類の生活は、
私にとってその本来の意味を帯びて現れて来た。
そして私は、これこそまさに生活そのものであり、
この生活に与えられる意味こそ真理であると悟り、
その真理を受け容れたのである。