理智的学問の犯す錯誤に気づいたことが、
私を 益なき思弁に耽(ふけ)る誘惑から遁(のが)れしめる助けとなった。
真理の認識は、ただ実生活を通じて獲得される という確信が、
私を 自分の生活の正しさに疑念を持つよう刺戟(しげき)した。
然(しか)し私を救ったものはただ、
私が除外例的な立場から脱(ぬ)け出て、素朴な労働生活の真の生活を見、
そしてこれこそまさに真の生活だ と悟ったことであった。
私は もし自分が生と生の意味とを理解したいと思えば、
寄生蟲(きせいちゅう)的生活でなく 真の生活を送り、
真の人類が生に附与しているその意味を受け容れ、
その生活にとけ込んで、それを吟味しなければならぬことを悟った。
☆
その頃 私に次のようなことが生じた。
その年の間中、私が殆(ほとん)ど毎瞬(まいしゅん)ロープか銃で
一思いにおさらばすべきではないかと自問していた間中、
さきに述べた思索と観察の歩みとならんで、
私のハートは 遣瀬(やるせ)ない感情に悩んでいた。
この感情を私は、神の探求とより外に名づけることは出来ない。
☆
私はあえて言う、この神の探求は 智的考察でなく、感情の働きだった、と。
なぜなら この探求は、私の思索の歩みから流れ出たものでなく、
---それは寧(むし)ろ、思索の歩みと真向(まっこう)から対立した---
ハートから流れ出たものだったからである。
それは 孤児になることを恐れる感情、他人のただ中での孤立を恐れる感情、
誰かの助けを期待する感情だった。
☆
神の存在の証明が 不可能であることは 重々確信しているにもかかわらず
(というのは、カントもそれを証明することが不可能なことを私に証明してくれたし、
私にも 彼の説くところが よくのみこめたのだ。)
私はやっぱり神を探し、神を発見することを期待し、
昔の頃の習慣で、自分が探し求め、
しかも発見出来ないでいるその者に 祈りを献(ささげ)たのだった。
私は 神の存在証明の不可能性に関する カントやショーペンハウエルの論拠を
幾度も思い浮かべたり、かと思うと それらの論拠を吟味し、
それを反駁(はんばく=反論)し始めたりした。
因果律(いんがりつ)というものは---と私は自分に言うのだった。
--- 空間や時間みたいなそんな思惟(しい)の範疇(はんちゅう)ではない。
私が存在する以上、その原因があるし、
その原因の原因がある。
そして この全(すべ)ての原因というのが、神と呼ばれるものなのだ。
こうして私は その想念(そうねん)を噛みしめ、
自分の全存在をもって その原因の実在を感じ取ろうと努めた。
そして私が その支配下におかれているところの力があることを意識するや、
直(ただ)ちに 生の可能性を感ずるのだった。
然し私は《一体 その原因、その力というのは何か?自分が神と呼んでいるものを
どう考え、またそれに どう対したらいいのか?》と自問する。
すると《彼は--創造する者、恩寵(おんちょう)を垂(た)れる者》
といった陳腐(ちんぷ)な答えが 頭に浮かぶのだ。
これらの答えは 私を満足させなかった。
そして私は
自分の中で、生きて行くのに欠くことの出来ないものが滅んで行くように感じた。
私は 恐怖に襲われ、自分が探している者に、
私に力を藉(か)してくれるよう 祈り始めるのだった。
しかも 祈れば祈るほど、ますます私には、彼が私に耳をかさず、
もともと訴ゆべき何者も存在しないのだ ということが明瞭になった。
そして 結局とどのつまり 神は存在しないのだ という絶望を胸に懐(いだ)きながら
《主よ、我を憐(あわ)れみて 救い給(たま)え!
主 我が神よ、我に教え給え!》と唱(とな)えた。
然し 誰も私を憐れんでくれず、
そして私は 自分の生が 停頓した(ていとん=ゆきづまる)のを感じた。
☆
然し私は くりかえしくりかえし、いろんな他の方面から、
私が何の機縁(きえん=きっかけ)も原因も意味合いもなく
この世に現れるはずがない ということ、
自分は何だか巣から落ちた小鳥みたいな気がするけれど、
そんなはずはない ということを認める境地に帰るのだった。
よし 巣から落ちた小鳥である私が、
丈高い草の中に 仰向けにころがって ピーピー鳴いているとしても、
私がピーピー鳴くのは、母鳥が私を生み、
巣の中で温(あたた)め、養(やしな)い、
いつくしんだ ということを知っているからこそである。
彼女はどこにいる? その母鳥は?
もし私を巣から叩き落としたとすれば、
誰が叩き落としたのだろう?
私は 何者かが私を、愛するが故(ゆえ)に 生んだ
ということを知らないでいる訳には行かない。
この何者か とは誰であろう? --- やっぱり 神ではないか?