9-3 ショーペンハウエルやソロモンの立場は、愚劣なものであることを悟った

経験科学の中に解答を探していた時、

私はどんなことをしたか?

私は何のため自分が生きているのかを知りたく思い、

そのために 自分の外部にあるものを 何もかも研究した。

これで私は 色々多くの事を知ることが出来たにしても、

私に必要なものは 何も知ることが出来なかったのは きまり切ったことである。



では 私が解答を哲学的な学問の中に探し求めた時、 どんな風にやったか?

私は、自分は何のために生きているのかという問題に対する答えを持たぬこの私と、

まるで同じ状態にある人々の思想を研究した。

だから、私は私自身が知っていること--- つまり 何も分りはしないということの外、

何も分らなかったのは自明(じめい=証明などしなくても明らか)のことである。



我とは何ぞや?

無限の一部である。すでにこの無限と一部という二つの言葉の中に、
全課題が横たわっている。



こうした問題を、人類は 果してほんの昨日から自分に課したのであろうか?

果して私の前には 誰もこの問題を---まことに簡単な、賢い子供なら

どの子も口に出しそうなこの問題を、自分に課した者はなかったろうか?



この問題は 人類が生存して以来、ずーっと問われて来たし、

そしてまた人類の生存以来、この問題の解決のためには、

有限を有限と照合しても、無限を無限と照合しても、

共に不充分だと分っていたし、

また人類生存以来、有限なるものの無限なものに対する関係が
探求され 表現されているのだ。



ところで、その中で有限が無限に照合されて、生の意味が生じて来るといった

これら全ての理念、神・自由・善 といった理念を、

我々は 論理的研究の対象にする。

そうすれば これらの理念は、理性の批判に堪えないということになる。




我々が どんなに高慢と自己満足をもって、子供が時計を分解して
中からゼンマイを引き出し、それを玩具にして、
そのあげく時計が動かなくなったといって びっくりする、といった、
まるでそんな風な事をやらかしているのを見るのは、

それがああまで恐ろしい事でさえなければ、むしろ滑稽だろうと思うのである。



有限なものと無限なものとの矛盾の解決や、

それあって初めて生きる事が可能となるような人生問題の解答は、

まことに必要かつ貴重 と言わねばならない。

だのにこの、到る所、あらゆる民族の中に 我々が発見する唯一の解決、

我々にとって人類生活が もう姿を没しているくらいの太古から齎(もたら)された解決、

非常に困難で、我々にはその真似事も出来そうにないような解決

---そうした解決を 我々は軽率に破壊し、

そして又ぞろ 誰もの胸中にある、
そして我々が答えを持ち合わせていない疑問を持ち出す始末なのだ。



無限なる神、霊の神性、人の業(わざ)と神との結合、霊の本質、

道徳的善意に対する人間的理解等々の観念は、

人間の思想の杳(よう)とした無限の中でつくられたもので、

それなくしては 生も、また私自身も存在しないであろうところのものなのに、

私は これら全人類の辛苦の所産を放擲(ほうてき=投げ出す)して、

自分だけで新しく、自己流に それをつくり上げようと欲するのだ。



私は当時 そんな風なことを考えた訳ではないが、

そうした考えの萌芽(ほうが)は すでに私の中にあった。

私はまず第一に、私やショーペンハウエルやソロモンの立場は、

我々のすぐれた智慧にもかかわらず 愚劣なものであることを悟った。

というのは、我々は 生が悪であることを理解しながら、

やっぱり生きているからである。

これは 明らかに愚劣 と言わねばならない。

なぜなら、もし人生が愚劣なものであれば、
--私は合理的なものを大恋愛しているのだから--

その生を 滅せばいいので、
それを誰かに向って否定して見たりなど 余計なことであるから。

更に 第二に私は、全ての我々の判断は、

シャフトに噛み合わぬ車輪のように、

魔法の輪の周囲をぐるぐる廻っていることを理解した。

どんなに色々と、またどんなにうまく判断して見ても、

我々は 問題に対する解答を得ることが出来なくて、

いつも0イコール0になるから、多分我々の進む道は間違っているに違いなかった。


第三に私は、信仰によって与えられる解答の中に

最も深い人類の智慧がかくされていて、

私は 合理性を盾に それを否定する権利がない ということ、

これらの重大な答えだけが 人生問題に答えているのだ

ということを 理解し始めていた。