私は次のように思索の歩を進めた。
私は自分に言うのだった。
信仰による認識は、理性を具備した凡(おおよ)その人間がそうであるように、
神秘的本源から生れ出る。
この本源こそ 神であり、
それは同時に 人間の肉体ならびに理性の本源でもある。
神からの相伝(そうでん=代々受け継いで伝えること)によって
私の肉体が私のものとなったように、
私の理性と私の人生理解も 私のものとなった。
したがって、人生理解の凡(あら)ゆる発展段階が虚偽(きょぎ)であるはずはない。
人々が真に信ずるものは 全(すべ)て真理に違いない。
それは 色々と違った言い方で表現されはしても、
それが虚偽であるということは あり得ない。
それ故 もしそれが私に虚偽だと思われるなら、
それは 私がただそれを理解していないだけの話である。
☆
更にまた---と私は自分に言うのだった。---
あらゆる信仰の本質は、
死によって滅ぼされることのないような意味を
生に附与するものの中にある。
信仰が 奢侈(しゃし=度をすぎてぜいたくなこと)のただ中で死につつある皇帝、
労働に押しひしがれた老奴隷、物心つかぬ幼児、智慧深き老人、
耄碌(もうろく)した老婆、若い幸福な女、情慾に悩む若者など、
生活状態や教育程度において 実にさまざまな、
ありとあらゆる人達の問いに答え得るためには当然、
そしてまた人生の永遠唯一の疑問《何のために私は生き、
何が私の一生から生れるか?》に対する答えが
よし唯(ただ)一つだとしても、
勿論その本質においては 唯一つであるその答えも
当然無限に多様な外形をとり、
そしてこの答えが唯一つで、真実で、深遠であればあるだけ、
自(おのずか)ら、各人が自分の境遇と教養の度に応じて
それを表現しようと試みるさい 奇妙な、畸形(きけい=奇形)的な形をとる、
ということになるのだ。
---然(しか)し私に信仰の儀式的側面の奇怪さを弁護してくれるこうした考え方も、
やっぱり私自身が 自分の人生における唯一の重大事である信仰に関して、
自分が疑念を感ずるような行動を あえてする気には させなかった。
私も 民衆の信仰の儀式的側面を遂行して、
彼らと融合(ゆうごう)する状態になりたいと、
全身全霊をもって望んだのだが、
やっぱりそれが出来なかった。
私は もしそんなことでもすれば、 自(みずか)ら欺(あざむ)くことになり、
また自分にとって神聖なものを嘲笑(ちょうしょう)することになる と感じたのだった。
でも折(おり)しも私を助けるために、
新しいわがロシヤの神学的著作が 立ち現われたのである。