何よりも永い間 この仮借なき真実から
私の眼をそらせていた二滴の蜜
-- 家族への愛と、
私が芸術と呼んでいたところの創作活動への愛--
も早や私にとって 甘さを失ったのである。
《家族か--と私は自分に言う。でも家族
--妻や子供達、彼らもやっぱり人間じゃないか。
彼らだって、そっくり私と同じ条件の中にいるではないか。
彼らも嘘偽(うそいつわり)の中で 暮して行くか、
あるいは 恐るべき真理を見るかせねばならない。
なぜ彼らは生きねばならないのか?
なぜ私は彼らを愛し、保護し、育て守って行かねばならぬのか?
私が感ずるような絶望を感じさせるためか?
あるいは 痴呆状態に導くためか?
彼らを愛するからといって、彼らから真実をかくすことは出来ない。
一歩々々と知識が増す毎(ごと)に、
彼らはこの真実に近づいて行く。
その真実とは---死》
☆
《では芸術は? 詩は?》
うまうまと世人の賞讃を博したおかげで、私は永い間、
全てを無にする死、私の業績もその思い出も無に帰する死がやって来るにもかかわらず、
それをやる価値のある ひとかどの仕事だと自分を説得して来た。
然し 間もなく私は、これまた欺瞞にすぎないということを見てとった。
私には 芸術が生の装飾、生への誘いであることが はっきりしていた。
ところで 生が私にとってその魅力を失ったのに、
どうして私に他人を誘うことが出来るだろう?
私が自分自身の生を生きないで、
他人の生活が その波の上に私を翻弄していた間、
また私がそれを言いあらわし得なくても、とにかく生に意味があると信じていた間は、
--詩や芸術における いろんな種類の人生の反映が私に喜びをもたらした。
私には この芸術の鏡の中に 生の姿を眺めることが愉快だったのだが、
私が生の意味を探し始めるや、
どうでも自分で生きることの必須性を感じ始めるや、
この鏡は 私にとって用のない、
余計で滑稽な、あるいはむしろ にがにがしいものに変ったのである。
私は 自分が鏡の中に見るところのもの、
つまり 私の置かれた立場が 愚劣で絶望的である
という事実に 慰みを覚える訳に行かなかった。
私が心の底で、自分の生活が意味を持っていることを信じていた頃は、
その鏡を見て 喜ぶのもよかった。
その頃は この光の戯(たわむ)れ
--人生における喜劇的、悲劇的、感動的、美的、
戦慄的(せんりつてき)な--が 私を慰めた。
然し、私が、人生が無意味で恐怖に充ちていることを知った時、
この鏡の中の戯れは、
も早や 私をうかれさせることは出来なかった。
いかなる蜜の甘さも、私が竜と、私を支えている灌木を嚙る鼠を見た時、
私に美味を感じさせることは出来なかった。
☆
が、それだけではない。
もし私が 人生に意味なぞないとあっさり観念出来たら、
そのことを知っても 騒がなかったろうし、
それが自分の宿命だと悟ったでもあろう。
でも私は、そうした境遇に安住できなかった。
もしも私が森林に住んでいて、
そこからの出口のないことを知っている男のようだったら、
私は生きて行けたであろう。
でも 私は森林にさまよい込んで、迷ったことに恐れおののき、
何とか道に出ようとあがく男-- 一歩々々ますます迷い込むことが分っていながら、
やっぱり あがかずにはいれない男のようものだった。
☆
そのことが何よりも恐ろしかった。
そしてその恐怖からのがれるために、自殺を思ったのである。
私は 自分の前途に待ち構えるものに おじ毛をふるった。
その恐怖の方が、自分の置かれた境地自体より
もっと恐怖に充ちている ということも 分ってはいた。
でも私は、じっと辛抱強く破局を待つことが出来なかった。
どうせそのうち 心臓の血管が裂け、
あるいは何か内臓が破裂して、何もかもおしまいになるんだとは、
理屈の上ではどんなに分っていても、
やっぱり辛抱強く 破局が待てなかった。
闇の恐怖があまりにも大きくて、
私は一刻も早くロープか銃で その闇を脱出したかった。
そうした気持ちこそ 何よりも強く、
私を自殺へ引き寄せたのである。