7-1 ソロモンの快楽主義

学問の中に説明が見つからなかったので、

私はその説明を人々の生活の中に探し始めた。

それが私の周囲に暮す人々の中に見当るのではなかろうか と思ったのである。

私は自分と同種の人々を、彼らが私の周囲でどんな暮し方をしているか、
私を絶望に導いたその問題を どう扱っているかを観察し始めた。



そこで私が教養とか生活形態の点で 
私と同じ状態にいる人達の間に見出したものというのは次のことである。

私は 我々仲間の人達にとっては、
我々みんなが置かれている恐ろしい境遇からの脱路が四つあることを発見した。



第一の脱路は 無知のそれである。

それは 人生が悪であり無意味であることを、知りもせず理解もしないことの中に存する。

この種の人々-- 大部分女性あるいは大変若い、または大変愚鈍な人達--は
まだショーペンハウエルやソロモンや仏陀が直面した人生問題を理解していなかった。

彼らは 竜も見ず、
自分がつかまっている灌木を齧る鼠も見ないで、蜜の滴を嘗めている。

然し彼らがその蜜の滴を嘗めるのも、ただ 束の間にすぎない。

何かが彼らの注意を竜や鼠に向けさせるや、
もう 蜜を嘗めるのはおしまいである。

私には 彼らに学ぶべきものは何もない。

知っていることを知らないようになる訳には行かないからである。



第二の脱路は--快楽主義のそれである。

それは 人生の絶望性を知りながら、さしあたってすぐ眼の前の幸福を味わうこと、

竜も鼠も見ないで、 なるべくうまく 蜜を嘗めること、

ことに蜜がうんとたまった時は そうする事の中にある。

ソロモンは この脱路を次のように言い表わした。

《茲(ここ)において我は 快楽を讃美す。
そは飲食して楽しむにまさること日の下にあらざればなり。
人の労して得る物のうち、
これこそはその日の下にて神に賜(たまわ)る生命(いのち)の日の間、
その身を離れざる物ぞかし....
汝(なんじ)行きて歓喜(よろこび)をもって汝の麺麭(パン)を食し、
楽しき心もて汝の酒を飲め、

日の下に汝が賜わるこの汝の空(くう)なる生命(いのち)の日の間、
汝その愛する妻共に喜びて暮せ。汝の空なる生命の日の間、
斯(か)くてあれよ。是(これ)は汝が世にありて受くる分にして、
汝が日の下に働ける労苦によりて得るものとなればなり。
凡(すべ)て汝の手の堪(こた)うる事は、力をつくしてこれを為せ。
蓋し(けだし=思うに)、汝の赴(おもむ)く陰府(よみのくに)には、
労働も思索も、知識も智慧もあらざればなり。》



かくて我々仲間の人々の大部分が、自分の中に生の可能性を保持して行く。

彼らが置かれている境遇は、
彼らに禍(わざわい)よりもより多く福を与えるように出来ているし、

またうまい具合に彼らの精神的な魯鈍(ろどん=愚鈍)さが彼らに、

彼らの境遇の有利さは 偶然にすぎないこと、
誰でもがソロモンのように 千人の妻や宮殿を持つわけに行かないこと、
千人の妻を持つ男一人に対して 妻を持たぬ男が千人いること、
ひとつひとつの宮殿に対して 汗しながらそれを建てる千人の人間がいること、
そして今日 私をソロモン王のような境遇においた偶然が、
明日はまた 私をソロモンの奴隷にするかもしれないことなどを
忘れさせている始末である。

これらの人々の想像力の鈍さは 彼らに、

仏陀に安き心を与えなかったところのもの、病・老・死の避け難さ、
今日、でないなら明日にも 
あらゆるこれらの逸楽(いつらく=気ままに遊び楽しむこと)を
破壊し去るところのものを 忘れさせているのだ。



我々と同時代の、生活様式が同じ人々の大部分が
こんな風に考え また感じている。

これらの人人のうちのある者が、
彼らの思想と想像力の魯鈍さを、
実証主義という名の哲学であるなどと強弁しても、

私の眼には 彼らも、問題に眼を瞑(つむ)るために、

蜜を嘗める手合いと なんら区別はないのだ。

私は 彼らに従うわけには行かなかった。

彼らの如(ごと)き想像力の貧困を持ち合わせぬ私は、

人工的にそれを自分の中につくり上げることは出来なかった。

私もあらゆる生きた人間並みに 一度 鼠や竜を見てしまうと、

どうしても それから眼を離すことが出来なかったのである。

参照: 鼠と竜 蜜 4-2 馬鹿みたいにぼんやりと頂点に立っている