そうした気持ちが一番強く起きるのは、
最もよく取り行われる秘儀、そして最も重要だとされている秘儀、
洗礼式や 聖餐式(せいさんしき)に参加する時だった。
この場合 私は、もうどうも訳が分らないといったものにぶっつかるというよりも、
あまりにも見え透いたやり方にぶっつかるのだった。
そうしたやり方を見るのが切なく、
私は嘘をつくか、その信仰を放棄するかのジレンマに立たされたのだった。
☆
私は 自分が永年の後、また初めて聖餐式を受けた日に経験した、
あの苦しい気持ちを 永久に忘れないだろう。
祈禱(きとう)、懺悔(ざんげ)、戒律
--- これらはみんな私にのみ込めるし、
私の中に生の意味が啓示されるだろうという喜ばしい意識を喚起(かんき)した。
聖餐式自体も 私は、キリストを偲(しの)ぶ よすが(=手だて)として行われ、
罪汚れからの浄化と、キリストの教えの全面的受容を意味する行為だと自分に説明した。
☆
この説明が不自然なものだったにしろ、
私は その不自然さに 気がつかなかったのである。
私は 懺悔僧の前で、
普通の、おどおどした神父の前で 遜(へりくだ)って、
敬虔(けいけん)に、自分の罪を悔い、
霊の汚れをすっかり吐露(とろ)するのが嬉しくて、
また祈祷書(きとうしょ)を書いた父祖の謙譲(けんじょう)な気持と精神的に合流すること、
すべての過去及び現在の信者達と合一することが嬉しくて、
自分の説明の不自然さを感じなかったのである。
しかし私が至聖所(しせいじょ)の扉口(とびらぐち)に近づいて行って、
神父が私に、
私が今から嚥下(えんか=口の中のものを飲み下すこと)するものは、
本当の肉であり、血であると信ずる旨を繰返えさせた時、
私は 胸に鋭い痛みを覚えた。
それはもう、偽善的な調子などという騒ぎでなく、
---明らかに 信仰とは何かを全然知らぬような、
そうした人から発せられる 残酷な要求だったのだ。