5-2 学問--人生問題への適用には向かない

何よりも肝心なことは、私の個人的な疑問
--このもろもろの願いを持つ私とは 一体何であるのかということ--に対しては、

まるでもう 解答が与えられないのである。

そこで私は、これらの学問は大変興味深く、また 魅力的であるけれども、

これらの学問が正確かつ明白であればあるだけ、

どうも人生問題への適用には向かないことを悟った。

それらの学問の人生問題への適用度が少なくなるにつれて、
正確さと明白さが増大する。

それが人生問題の解決を与えようと試みれば試みるほど、

ますます曖昧(あいまい)な、色褪(いろあ)せたものになって行くのだ。

人生の諸問題に解決を与えようとするこれらの学問の分野--生理学、
心理学、生物学、社会学 といったものに眼を転ずれば、

直(ただ)ちに呆(あき)れるばかりの思想の貧困、とてつもない曖昧さ、

柄にもなく問題を解決したつもりのまるで不当な僭越沙汰(せんえつざた)、

そして1人の思想家に対する他の思想家達の対立抗争、

否、自分自身との矛盾撞着(むじゅんどうちゃく=矛盾に突き当たること)
といったものまで眼につくであろう。

一方 人生問題の解決には手を染めないで、

ただ自分の学問的専門的な問題に答える学問分野に眼を向ければ、

人間の知力というものに驚嘆せずにはいられないが、
然し前もって、人生問題への解答がないことが分っているのである。

これらの学問は、まるで人生問題を無視しているのだ。

彼らは言う。

《お前が何者で、なんのために生きているのかということは、

我々として答えられないし、そんな事を研究しているのでもない。

でももしお前が、光の法則、化合の法則、
あるいは有機体の発達の法則について知りたいと思うならば、

また人体とその組織の法則、数と量との相関関係の法則が知りたければ、
更にまたお前の心の動きの法則が知りたいならば、

そうしたことなら何でもはっきりした、
正確な、疑う余地のない答えを持ち合わせている》と。



経験科学の、人生問題に対する関係を要約すれば、次のようになるであろう。

問: なぜ私は生きているのか?

答: 無限に広がる空間と、無限につづく時間の中で、無限小の微分子が、
無限の複雑さで変化している。で、お前がこの変化の法則を理解するならば、
その時なぜお前が地上に棲息(せいそく)するか分るだろう。



一方 思弁的学問の分野において、私は次のように自分にいうのだった。

《全人類は 己れを導く精神的本源、精神的諸理想の基礎上に生活し進展して行く。
これらの諸理想は 宗教に科学に、芸術に、政治形体に反映する。
これらの諸理想は 常に向上に向上を続け、
ついには人類は 最高の福祉に到達する。この私は人類の一分子である。
だから私の使命は、人類の諸理想の自覚と現実に協力することにあるのだ》と。

そういう訳で私は 皮相的に物を考えていた間は、こんなことで満足していた。

然し人生問題がはっきりした形で胸中に生ずるや否や、

そんなセオリー(theory= 理論。学説)など
ことごとく瞬時にして潰(つい)え去るのだった。


この種の学問が、人類のほんの小部分の検討から導き出した結論を、
全般的結論であるかの如く称する いかがわしい不正確さは問わぬとしても、

また人類の理想が何に存するかに関して、種々の陣営の人達の見解が
互いに対立していることは問わぬとしても、

この種の見解のきてれつさ(いっそ馬鹿々々しさ と言いたいくらいだが)は、

各人の前にたちはだかる《私は一体何者か?》
あるいは《なぜ私は生きているのか》
あるいは《私は何を為すべきであるか?》という疑問に答えるためには、

各人は予(あらか)じめ《或るごく短期間の、或る微小な部分しか知らぬ、
未知なる全人類の生活とは何か?》を解決する必要がある、という点にあった。

彼が 自分は何者であるかを理解するためには、
人は前以(まえもっ)て、彼と同様 自分自身を理解しないでいる人達からなる
この神秘な全人類とは何か、を理解しなければならない という訳である。