14-2 洗礼式や聖餐式--あまりにも見え透いたやり方

そうした気持ちが一番強く起きるのは、

最もよく取り行われる秘儀、そして最も重要だとされている秘儀、

洗礼式や 聖餐式(せいさんしき)に参加する時だった。

この場合 私は、もうどうも訳が分らないといったものにぶっつかるというよりも、

あまりにも見え透いたやり方にぶっつかるのだった。

そうしたやり方を見るのが切なく、

私は嘘をつくか、その信仰を放棄するかのジレンマに立たされたのだった。



私は 自分が永年の後、また初めて聖餐式を受けた日に経験した、

あの苦しい気持ちを 永久に忘れないだろう。

祈禱(きとう)、懺悔(ざんげ)、戒律

--- これらはみんな私にのみ込めるし、

私の中に生の意味が啓示されるだろうという喜ばしい意識を喚起(かんき)した。

聖餐式自体も 私は、キリストを偲(しの)ぶ よすが(=手だて)として行われ、

罪汚れからの浄化と、キリストの教えの全面的受容を意味する行為だと自分に説明した。



この説明が不自然なものだったにしろ、

私は その不自然さに 気がつかなかったのである。

私は 懺悔僧の前で、

普通の、おどおどした神父の前で 遜(へりくだ)って、

敬虔(けいけん)に、自分の罪を悔い、

霊の汚れをすっかり吐露(とろ)するのが嬉しくて、

また祈祷書(きとうしょ)を書いた父祖の謙譲(けんじょう)な気持と精神的に合流すること、

すべての過去及び現在の信者達と合一することが嬉しくて、

自分の説明の不自然さを感じなかったのである。

しかし私が至聖所(しせいじょ)の扉口(とびらぐち)に近づいて行って、

神父が私に、

私が今から嚥下(えんか=口の中のものを飲み下すこと)するものは、

本当の肉であり、血であると信ずる旨を繰返えさせた時、

私は 胸に鋭い痛みを覚えた。

それはもう、偽善的な調子などという騒ぎでなく、

---明らかに 信仰とは何かを全然知らぬような、
そうした人から発せられる 残酷な要求だったのだ。