12-2 こうして私は 自殺からまぬがれた

神は 私の探求、絶望、あがきを知り、かつ 観(み)ている。

《神は存在するのだ》 と私は自分に言った。

そして そのことを一瞬 認めさえすれば、

ただちに 私の身内に生命力が高まり、

生存の可能と歓喜を感ずるのだった。

然(しか)し私は 再び 神の存在の承認から

神との関係の探索に移行し、そして再びあの神が、

子なる救世主を地上に遺(のこ)した三位一体(さんみいったい)の神の姿が現れる。

そして再び この世界から、私から隔絶(かくぜつ)した神は、

氷塊(ひょうかい)のように 私の面前で溶け去り、

再びなんにも残らなくなり、 

再び生命の泉が涸(か)れるのだった。

そこで私は絶望に陥(おちい)り、
自殺する以外 何もすることがない と感ずるのだった。


しかも 何よりもいけないのは、その自殺するということすら
私には 何も出来ないということを感じたことだったのである。



二度や三度でなく、何十回何百回と 私はこうした状態、

喜びと生気につづく絶望と生存不可能の意識の繰り返し といった状態に陥った。



忘れもしない、それは早春のことであったが、

私は一人 林の中にあって、

その林の中の 種々の物音に 耳を傾けていた。

私は 耳を傾けながら、

この三年間 絶えず常に ただ一つのことを考えて来たように、

ただ一つのことを考えていた。

私は 再び神を探していたのだ。



《よろしい、神などというものは 存在しない---と私は自分に言うのだった

---私の単なる表象(イメージ)でなくて、私の全生活のような実在としての神、

といったものは 存在しない。そして何者も、いかなる奇蹟も、

そのようなものの存在を証明することは出来ない。

なぜなら 奇蹟も私の表象であり、のみならず不合理な表象ですらあるのだから。》

《然しながら私のこの神の観念は?---と私は自問した。

---この観念は どこから生じたのか?》 そしてこの事を考えるや、

再び私の内部に喜ばしい生の波動が高まったのである。

私の周囲のものが 何もかも活気を帯び、意味を持ち始めた。

それでも 私の喜びは永くつづかなかった。

やっぱり 理智が活動をつづけたのだった。

《神の観念は---神ではない》と私は自分に言った。

---《観念というものは 私の心中に生ずるもの、

神の観念は、私が自分の心中に喚起(かんき=呼び起こす)することも
しないことも出来るところのものなのだ。

それは 私が探し求めているものではない。

私は、それなしでは生きて行くことが出来ないもの、

そんなものを探しているのだ。》

そして再び私の周囲のものや、私の内部のものが、

何もかも滅び始め、再び私は 自殺を想うのだった。



然し その時私は 自分自身をふりかえり、

自分の中に生ずるところのものをふりかえり、

そしてこの何百回となく私の中に生じた 
滅びと蘇(よみがえ)りのくりかえしを思い起こした。


私は 自分がただ、神を信じている間だけ 生きていたことを思い起こした。

昔そうであったように 今も、神を認めさえすれば私は生き、

神を忘れ、神を信じなくなった瞬間に 私は死んだといってよかった。



この蘇生(そせい)感と 死滅感は 一体 何を意味するのだろう?

私は 神の存在への信仰を失うや、生きていないも同然だった。

もしも私に 神を見出すという、

はっきりしないけれど ある期待がなかったら、

とっくに 自殺していたにちがいない。

私は神を感じ、神を求める時、そんな時だけ生きる、

まぎれもなく生きるではないか!

では一体 私は外(ほか)に何を求めているのか?
---と私の内部の声が叫んだ。


---そら、これが神だ。

神とは、それなしには生きて行けないところの そのものなのだ。

神を認めることと生きること、
---それは 同義語である。

神は 生命である。




神を探し求めつつ生きよ。

さすれば 神のない生活の生ずる いわれ(=理由)はない。

かくて 私の内部 及び周辺において、

全(すべ)てが 未(いま)だかつてなかったほど明るく輝き、

そしてその光は もう決して私を離れなかった。

----- こうして 私は自殺からまぬがれた。