9-2 信仰というのは一体なんだろう

合理的な知識は私を、生の無意味さの承認に導いて、

私の生活は停滞し、私は 自殺を願うようになった。

周囲の人々を、全人類を見廻せば、

みんながちゃんと生きていて、

生の意味を知っていることを証拠立てているのが分った。

自分自身を顧(かえり)みれば、
私は生の意味を知っている間だけ生きて来たのだ。

外の人の場合と同様に、私にも信仰が 生の意味とその可能性とを与えたのだった。



更に歩を進めて、外国の人々、また同時代人や過去の人達を眺めても、

私は全く同一のことを見た。

生のあるところ、そこには 人類始まって以来 いつも信仰があり、

生の可能性を与えている。

そして 信仰の主要な特徴は、古今東西問わず 同じようなものである。



どんな信仰が 誰にどんな解答を与えようと、

信仰が与える解答はみんな、有限な存在である人間に無限なる意味

-- 苦悩や欠乏や死によって滅ぼされる意味を与えるのである。

即ち-- ただ信仰の中にのみ 生の意味と可能性とを見出すことが出来るのだ。

この信仰というのは 一体何だろう?

こう問うて見て、私は次のことを悟った。

つまり信仰とは、単に眼に見えぬもの その他を開示して見せることでもなく、

あるいは啓示でもなく(これは信仰の一特徴の単なる記述にすぎぬ)

人間の神に対する関係でもなく(最初に信仰を規定し、
その後で神を規定せねばならないので、神を持ち出して信仰を規定してはいけない)

更にまた 人が説くところのものに賛成する(信仰というものが
最もしばしば誤解されているように)ということのみでなく、

--- 信仰とは その結果 人が自殺しないで生きて行くところの、
人生の意味についての認識である、ということである。

信仰とは 生の力である。

人間が生きて行くのは、彼が何かを信仰しているからなのだ。

もし彼が、何かのために生きる必要があることを信じないなら、

生きて行けないであろう。

もし彼が有限なるものの夢幻性を理解するならば、

彼は 無限なものを信じなければならない。

信仰なしでは どだい 生きて行けはしないのだ。



そこで私は、自分の内的苦悩の全過程を想い出して おじ気をふるった。

今や私には、人が生きて行けるためには、無限なものを見ないでいるか、

あるいはそこでは有限なものが 無限なものと並び立つ如き地盤の上での、

人生の意義の説明を持たねばならぬ ということがはっきり分った。

そうした説明解釈を私も持っていた。

しかしそんなものは 私が有限なものを信じている間は必要でなかったので、

私は 理性でもって それを検討し始めた。

その結果 従来の説明は 理性の光の前で 雲散霧消した。

然し 私が有限なるものを信じなくなる時が来た。

そして その時私は 合理的な基礎の上に、

自分が学んだところのものから 
生に意味を与えるような説明解釈を打ち建てようとしたが、
何も打建てることが出来なかった。

人類の中の卓越した智者達と共に、

私は 0は0に等しい といったところに辿(たど)りつき、

もともとそうした結論になる外はないのに、

そうした結論を眼の前にして 大いに驚いたのである。