1-2 聡明で誠実なSという男

聡明で誠実なSという男が、
どうして信仰をやめたかの経緯(いきさつ)を
私に語ったことがある。

早くも ほぼ26歳の時のことだが、
ある時 彼が猟に出ての野宿のおり、
古い 幼年時代からの習慣で、夜のお祈りを始めた。

一緒に猟に出た兄が、乾草(ほしくさ)の上に寝そべって 彼を眺めていた。

Sがお祈りを終わって 寝仕度(ねじたく)を始めると、
彼の兄は、”お前はまだそんなことをやってるのかい?” と言った。

それから二人は 何も言わなかった。

そして その日以来 彼はお祈りをやめ、教会に行くのをやめてしまった。

こうして、もう30年間もお祈りもしなければ、聖餐も受けず、教会へも行かないのである。

というのは、彼が兄の信念を知って それに同じようにした というよりは、
あるいは 何か心に思い定めた というよりは、
ただもう 兄がふと洩(も)らした言葉が、
自分自身の重みで倒れるばかりになっていた壁を、
ちょっと 指先で突いた といった具合だったのである。

兄の言葉はただ、彼がまだ信仰が存在していると思っていた場所が、

とっくに空巣(あきす)のからになっており、

したがってお祈りの際に彼が呟(つぶや)く言葉や、十字を切ることや、
叩頭(こうとう=頭を地につけて おじぎをすること)などが、
全く無意味な行為である ということを示したにすぎないのである。

それらの行為の無意味さを意識した以上、彼はもう それを実行することは出来なかった。



私は 我々程度の教養人種で、自分自身に誠実である人々について言っているので、
その信仰の対象を、何か世俗的目的達成の手段にしている人達についてではない。

(世俗的目的達成の手段にしている人達
---こうした人達こそ、
最も根本的な不信者にほかならぬ。
というのは、信仰というものが彼らにとって、
なんらかの世俗的目的達成の手段だというのなら、
それはもう 信仰などという代物ではないからである。)

これら我々のような人種は、
知識と実生活の火が、みせかけの建造物に燃えついて、
そのため彼らは それに気づいて退去するか、
あるいはまだそのことに気づかない といった状態にあるわけである。