15-2 私は信仰を、生きる力を探しているのに、彼らは世俗的義務を果す

こうした不審当惑が あまりに明らさまなために、

いろんな信仰が行われる国に住み、

カトリック側からの正教会やプロテスタントに対する、
軽侮(人を見下してばかにする)的な、
自信に充ちた、決然たる否定、

同じく正教会側からのカトリックやプロテスタントへの、

またプロテスタント側からその両者への
同様な態度、更には 旧教派、パシコーフ教徒、シェーカー教徒

その他全(すべ)ての教派の同様な態度を見る我々教養人種にとって

あまりに明らさまなために、その不審当惑が明らさま過ぎること自体が

最初のうち こちらの頭を混乱させるのだった。

そこで 我と我に言って見る。

もし 二つの主張が お互いに否定し合うなら、

どちら側にも 信仰本来の面目(めんぼく/めんもく)である
唯一の真理というものは存在しないという、

たったそれだけの簡単な理窟(りくつ)に みなが気づかぬということはあり得ない。

何かそこに仔細(しさい)があるだろう。 何かの種あかしがあるだろう。

---という訳で、私はその種あかしがあるものとそれを探し、

そのため こうしたテーマについての書物を出来る限り読み、

出来るだけ多くの人と語り合って見た。



然(しか)し私は たとえば
スム族軽騎兵聯(れん)隊の人々が
自分達の聯隊を 世界一の聯隊だと称し、
黄色槍騎兵達が 
世界一の聯隊は黄色槍騎聯隊であると称する場合の言い分以外の
何らの説明も受けることが出来なかった。

ありとあらゆる教派の僧侶達、彼らのすぐれた代表者達も、

彼らとしては、自分達は真理に生きているが、

他派の人達は 迷妄(めいもう)の中にあると信ずるということ、

そしてまた 自分達に出来ることはただ、
他派の人達のために祈ることだけであると思っている ということ以外は、
何も私に語ってくれなかった。

私は 官長や主教や長老やスヒマ僧といった人達の所へ赴(おもむ)いて
質問したのだが、誰一人 私に
不審当惑の念を解きほぐす労を取ろうとするものはなかった。

ただ彼らのうちたった一人、私に何もかも説明してくれた人がいたが、

その説明たるやお話にもならず、

それ以来私は もう誰にも質問するのを やめたのだった。



私は 信仰の門を叩く未信者
(現代のわが青年諸君も皆 叩きたがっているのだが)
にとって最初に現れる疑問は、

どうして真理がルーテル派にもなく、またはカトリックにもなく、

正教会にだけあるのか? ということだ、と言ったのだった。

彼らは中学校で教育されるので、

農民達がそれを知らないでいるように、
プロテスタントやカトリックも自分の信仰が唯一の真理だと主張していることを

知らない訳には行かない。

各派によって、自分に都合がいいように歪(ゆが)められた、
歴史的証明なるものでも 不充分である。

その教えを もっと高い見地から理解して、
その高みからは、真の信者にとって そんなものは消失するように、
あらゆる相違が消失するといった具合には行かぬものであろうか?

と私は言ったのだった。

私達が 旧教の人達と一緒に進んでいるその道にそって、

もっと先まで行けないものだろうか?と。



彼らは十字の切り方やアリルイヤの唱(とな)え方や、

祭壇をぐるぐる廻るやり方が、

我々のは彼らと違っている と主張する。

そこで我々は、《あなた方はニケヤ信条や七つの秘儀を信じておられるし、

我々も信じている。そうした点をしっかり摑んで行きましょう。

その他のことは お好きになさって下さい》と言った。

つまり我々は、信仰における本質的なものを、
そうでないものより上に置くことで 彼らと一致したのだ。

そこで今、カトリックの場合でも、《あなた方はかくかくしかじかのこと、

肝腎なことを信じていらっしゃる。

Filio-que (父と子と聖霊の聖霊が、父からと同様 子からも生れ出るという考え方)とか
法皇とかに関しては、
お好きになさって下さい》 

と言ってはいけないだろうか?

またプロテスタントにも、そんな風に肝腎(かんじん)の問題で一致して、

全(まった)く同じように言えないだろうか?

--- 私の対話相手は 私の考えに賛成したが、

それでも私に、

そうした譲歩は宗務(しゅうむ=宗派の運営に関する仕事)の最高機関に対して、

父祖相伝(そうでん=代々受け継いで伝えること)の信仰からの離脱

という非難を招き、また分派発生の因(いん=物事の原因)ともなる。

もともと最高機関の任務は、
父祖から受け継いだロシヤのギリシャ正教の信仰を、

完全に純粋な形で守ることにあるのだ、と言った。



そこで私は 全てを悟った。

私は信仰を、生きる力を探しているのに、

彼らは 世人の眼の前で、

特定の世俗的義務を果すために 

最も便利な手段を探しているにすぎないのだ。