3-2 教える資格は無い

外国から帰って 私は田舎に落ち着き、
農民学校の仕事に手を染めた。

この仕事は 殊(こと)のほか 私の気に入った。

というのは この仕事には、その頃 私にははっきりして来て、
早や正視に堪えぬ感じを催させたところの、
文学上の教師としての活動の中の 
あの 欺瞞(ぎまん)がなかったからである。

この場合もやっぱり私は、進歩の名において活動したにはしたものの、

早や 進歩そのものに対する批判的立場にあった。

進歩 というものは、その或る種の現象の中では、誤った方向に発展して来ている。

だから最も素朴な人種、農民の子弟に対して
完全に自由な態度で接し、
彼らが 自ら欲するところの進歩の道を択(えら)ぶように仕向けねばならない。

と、こんな風に 自分に言いきかせた。

それでも 本当のところ私はやっぱり、何を教ゆべきかを知らないで教えようという、
解き難い課題のまわりを 相変わらず堂々めぐりしていたのである。

文学界の雲上人(うんじょうびと)達の間にあっては、

私は 何を教ゆべきかを知らずに教えることは出来ない と悟った。

というのは これら雲上人達は、みんな てんでんばらばらの事を教え、

互いに したり顔(=得意顔)の論争に紛れて、
辛うじて 自分の無智を忘れているといった始末だった。

ところが こうして農民の子弟と一緒にいると、

子供達に 彼等の欲するに任せて学ばせることによって、

この醜態を避け得るものと私は思ったのだ。

私は 自分の欲望
--心の奥底では 自分は何が大事なことかを知らないのだから、
その大事なことについて 何も教える資格はないことを百も承知でありながら、
やっぱり教えたい という欲望--を充(み)たすために、

自分がどんなにポーズをつくったかを思い起こせば、
今でも おかしくなって来る。

学校の仕事を始めて1年の後、私は、自分では何も知らないで
他人に教え得る方法を知らんがために、再び外国へ旅立った。



そして私には、外国で その方法が習得できたように思えた。

そこで これらの全ての新知識に身を固めて、
農奴解放の年にロシアに帰り、農事調停員の椅子を占め、

教育のない一般の人々を 学校で、
また 教育のある人達を 自分が発行し始めた雑誌を通じて 教えだしたのである。

事は まずまずうまく運ぶかに思えた。

然(しか)し私は、どうも少し 精神的に健全とは言えず、
ずっとそれを続けることは出来まいと感じた。

で、もしも私に もう一つの生活の側面、
つまり まだ私が経験したことがなく、
そして私に救いをもたらしてくれそうに思えたものがなかったら、

あるいは その15年後に直面した絶望に、その時 直面していたかもしれない。

---それは外でもない、結婚生活だった。



1年の間 私は調停員、学校、雑誌の仕事に従事して、

何よりも ごたごたにまき込まれるのに疲れ果てた。

調停における争い事が 私にはやり切れなく、
学校事業の効果も すっきりしなかった。

相(あい)も変わらず、みなを教えながら、
実は 自分が何を教ゆべきかを知らぬことをかくしておきたい、
という願いからのみなる 雑誌発行のごまかしが、
私には ひどく忌(い)まわしくなって来た。

そして そのあげく、

肉体的によりも寧(むし)ろ 精神的に参ってしまい、

何もかも放擲(ほうてき=投げ出すこと)して、
パシキール人の住む広野へ旅立った。

清浄な空気を吸い、馬乳酒を飲み、原始的生活をするために。



そこから帰って、私は結婚した。

そして 幸福な家庭生活の新たな諸条件が、
人生の普遍的意義の探求から、もうすっかり私を引き離してしまった。

当時 私の全生活は、家庭に、妻に、子供達に、

したがって 生活の資を増大する配慮に集中されていた。

もう その前から 一般的完成、
あるいは進歩への努力にすり換えられていた完成への精進努力は、

今や なるべく私と私の家族に有利なように
という努力に すり換えられてしまったのである。



こうして 更に15年が過ぎて行った。