5-3 哲学はそれに答えない

白状すれば、 そういったことを信じていた時期が 私にもあったのである。

それは 自分の恣欲(しよく)を
あたかもジャスティファイ(justify=正当化)する お気に入りの理想があった時期で、

私は自分の恣欲を
あたかも人類の法則かのように見なし得るセオリーを考えつこうと努力していた。


然し私の胸中に人生の疑問がすっかり鮮明になるや否や、

こうした解答は 風の前の塵(ちり)のように吹き飛んでしまった。

そして私は、経験科学の中にも 真の科学と、
自分の領分でない問題に解答を与えようとする擬似(ぎじ)科学があるように、


思弁的学問の領域にも、
柄にもない問題に答えようと努める 最も通俗的な学問の系列が、
長々とつらなっているということが分った。

この部門の擬似学問--法律学、社会--歴史学、といったもの--は、

それらがてんでに全人類の問題のひとりよがりの解決をすることで、

生(な)まの人間的問題を解こうとしているのだ。



しかしながら経験科学の領域においても、

自分がいかに生く可(べ)きかを真剣に問う者にとって、

《無限の空間の中で、無限の時間に無限の複雑さをもって変化する、
無限の諸分子について研究せよ、
そしたら自分自身の生が理解できるだろう》 という解答では、満足出来ないように、

---まさにそのように、真摯(しんし=まじめで熱心)な人間には、

我々がその起源も終末も知ることの出来ない、
またそのほんの一部をも知らないところの全人類の生活を研究せよ、

そしたら自分の生というものが理解できよう、

などいう答では 満足出来っこないのである。

そしてまた、擬似経験科学の場合と全く同様に、これらの擬似学問は、
それらが自分の課題からそれればそれるだけ、
曖昧さと不正確さと 愚劣さと矛盾撞着とに充たされて来る。

経験科学の課題は、物質界の諸現象の因果論的考察にある。

経験科学が窮極原因の問題を持ち出すや、まるで たわごとがでっち上がる。
思弁的学問の課題は、因果律を超えた生命の本質を認識することにある。
社会的とか歴史的とかの、因果の世界の現象の考察を取り込むや、

これまた たわごとにすぎなくなる。



経験科学は、それが窮極原因をその研究の対象にしない場合のみ、
実証的な知識を与え、人智の偉大さを示してくれる。

ところが反対に 思弁的学問においては、

それが因果律下の諸現象の関連性を完全に離れて、
人間をただ窮極原因との関係において観察する場合にのみ、
人智の偉大さを示すのだ。

それこそ思弁的学問の分野においてその分野の極をなすもの--
即ち 形而上学 あるいは哲学に外ならない。

この学問は はっきりと《我及び世界は一体何者であるか?》
《なんのために私は存在し、また全世界は存在するのか?》
という疑問を提起する。

そしてその学問は その発生以来、常に同じ答えをして来た。

哲学者が我の中に、そしてあらゆる存在者の中にある生命の本質を

理念とか、実体とか、精神とか、意思とか、どんな風に呼ぼうと、

彼はただもう この本質が存在し、我もその本質そのものである
ということだけを言う。

然しながら、なぜ本質なぞ いうものがあるのか、

ということは 哲学者も知らないし、

もし彼が厳正な思想家であれば、それに答えたりしないのだ。

《なぜそんな本質が存在するのか?それが存在し、
また存在するであろうことから 何が招来(しょうらい=もたらす)されるのか》

と私は問う。

すると哲学はそれに答えないのみか 自分でもそれを問いかえす始末である。

そしてまたそれが 真正(しんせい=本物)の哲学であるならば、

その全機能は この疑問をはっきり提起することにのみある訳である。

そしてまた、それが己れの課題を固守する限り、

《我及び全世界は何者であるか?》との問いには《一切であり、無である》
とより外はには、また《一体何のために?》との問いには
《何のためって----それは分らない》とより外に答え得ないのである。

かくて哲学が与える思弁的解答をどんなにひねくり廻しても、

私は何ら解答らしきものを得ることが出来ない。

それも明晰(めいせき)な経験科学の領域におけるように、

解答が私の疑問と無交渉であるからでなく、

哲学においては

全知的活動がまさに私の疑問に向けられているのだけれど、

解答が存在せず、

解答の代わりに ただ複雑な形式の またぞろ同じ疑問が生ずるからである。