8-1 生命の常識

これらの全ての疑念は、今でも多少纏(まと)まった形で述べることが出来るけれど、

当時はまだ自分でも言い表わせなかったろうと思う。

当時は 私はただ、

最も優れた思想家達から確認された、
自分の、人生は空しいものであるという結論が、
よし論理的にどんなに抜きさしならぬものだとしても、

何かちょっとおかしいところがある、 と感じていただけだった。

判断そのものにおいてか、問題の立て方においてか知らないが、

ただ、理窟の上での説得力は完全であるけれど、

どうもそれだけでは足りない と感じていた。

これらの全ての結論は、
私に その判断から当然生ずるはずのもの、
つまり私が自殺する という事態を 実際に惹き起す程に説得的ではなかった。

それも 自分が理性の力で行き着く所まで行き着いて、
ために敢(あえ)て自殺しなかったのだと言えば嘘になるだろう。

理性も働いたには働いたが、

もっと違った何か、

私には 生命の常識とでも呼ぶ外 呼びようのないものも 働いた。

私の注意を従前と違った方面へ向けさせる力が別に働いて、

この力が私を絶望状態から救い出し、

私の理性の方向を 完全に変えたのである。

この力は私に、私や私に似た何百人かの連中が 全人類なんかでなく、

私はまだ人類生活が分っていないのだということに注意を促したのだ。



私と同輩の 狭い範囲の人々を見廻して、

私はただ、問題を理解しない人や、理解しながら生に酔うことで紛らしている人や、

それを理解して自殺する人や、

理解しながらも優柔不断に絶望的な生活をつづけている人だけを見た。

それ以外の人達は 見当らなかった。

私には、自分もそれに属している学者や金持ちや
有閑階級の狭いサークルが 全人類を構成していて、

今日まで生きて来、また現在も生きつつある幾十億の人々は、
まぁ家畜みないなもので、人間とは言えない といった気がしていた。