10-2 全人類が生きることの出来たかげに--真の信仰が存在

全人類が生きることの出来たかげには、

全人類が生活に意味を附与しながら それを続けて来たことのかげには、

---これら幾十億の人々の許(もと)に もっと違った、

真実の信仰認識があるはずである。

そもそも 私やソロモンやショーペンハウエルが自殺しなかったということ、

それが私に 信仰の実在を肯定させたのでなく、

これら幾十億の人達が生きて来たし 生きており、

私やソロモンのような人達を、己れの生の波間にただよわせた、

ということが そうさせたのではないか。



そこで私は 貧しく素朴で 無学な人々の中の信仰家

---巡礼、修道僧、異端派、農民 といった人達に接近し始めた。

民衆出身のこれらの人々の信仰も、
我々仲間の偽信仰家と同様に 基督教の信仰だった。

彼らの場合もまた、基督教の真理に非常に多くの迷信が混入されていたが、

ただ 次のような違いがあった。

即(すなわ)ち、我々仲間の信仰家には 迷信など全然必要でなく、
それが彼らの生活と編み合わされておらず、
ただ 彼らなりの快楽主義的 気慰(きなぐさ)めにすぎないのに、

労働階級の信仰家の場合は、
それが彼らの生活と しっかり編み合されていて、
そうした迷信のない彼らの生活は 想像することも出来ない

---つまり 迷信が その生活の不可欠の条件だったのである。

我々仲間の信仰家の全生活は、 彼らの信仰への背反(はいはん)だったが、

信仰し、そして額(ひたい)に汗する人々の 全生活は、

その生の意味を附与する信仰認識の確証だった。

そこで私は、これらの人々の生活と信仰を見詰め始め、

見詰めれば見詰めるほど、

彼らには 真の信仰が存在するということ、

彼らの信仰は 彼らに不可欠のもので、

それのみが 彼らに生の意味を与えているのだということを確信した。



信仰のない生活が可能で、
千人の中 一人も自分を信仰家と認める者がいるかいないかの
我々仲間の中で見たものと反対に、

彼らの中には 千人の信仰者の中に
一人の不信仰者が いるかいない程度だった。

全生活が 遊惰(ゆうだ)と安逸(あんいつ)と、生への不満のうちに過ぎて行く
我々仲間の中で見たものと反対に、

これらの人々の全生活は 苦しい労働に明け暮れ、

しかも彼らは その生活に 満足しているのだ。

我々仲間の人達が、欠乏や苦悩の運命に反抗し、
それに憤慨(ふんがい=ひどく腹を立てること)するのに反して、

これらの人々は 病いや悲しみを 

ちっとも不思議と思わず、あらがいもせず、

それらを全て善であるという静かな鞏固(きょうこ)な信念をもって
受け容れるのだった。

我々が 賢ければ賢いほど、 ますます生の意味が理解出来ず、

自分達が苦しんだり 死んだりする事に

何か 意地の悪い嘲笑を感ずるのに反して、

それらの人々は 生き、苦しみ、死に近づき、

しかも平静に、何よりもしばしば喜びをもって苦しみに耐えているのだった。