11-3 主人なんてものは居やしなくて、悧巧なのは自分達である

もしも 裸の飢えた乞食を 町角からつれて来て、

素晴らしい建物の、屋根で蔽われた一つの場所につれて来て、

食物や飲物を与え、何か棒みたいなものを上下に動かすように命じたなら、

何のために彼をつれて来たのか、
何のために棒を動かすのか、
その建物全部の構造は 合理的かどうか、などと詮議(せんぎ)立てするより前に、

その乞食としては何はさておき その棒を動かさねばならぬ ということは明らかである。

もし彼が棒を動かせば、
彼はその棒がポンプを動かすこと、ポンプが水を吸い上げること、
水が畠(はたけ)の畝(うね)に沿って流れることが分るのだ。

その時彼を、その屋根のある井戸からつれ出して、別の仕事へ就ける。

そして彼は果実を集め、自分の主人の喜びに参入し、
低い仕事から高い仕事に移動するにつれ、

ますます建物の全構造を広く理解し、またそれに参入し、
どうして自分はここにいるのかなど 決して訊(たず)ねようとも思わぬし、

また主人を非難したりすることは さらさらないのである。



かくて主人の意思を遂行(すいこう)する人達、素朴で勤勉で無学な人達

---我々が 家畜同然に見なしていた人達は、主人を責めることをしない。
(参照:8-1 生命の常識)

ところが 我々智慧者達は、主人のものを何でも食べるのだけれども、

主人が自分達に要求することは何もしないで、

何かやる代わりに 車座になって、

《何のため棒なんか動かすんだ?馬鹿々々しいじゃないか》などと論じたりする。

こういったことを考える始末であるが、そのあげく とうとう、

主人は愚かであって、あるいは 主人なんてものは居やしなくて、

悧巧(りこう)なのは 自分達である、 というまでに飛躍する。

ただそれにしても 我々自身も何の役にも立たず、

何とか自分自身から のがれねばならない と感ずるのだ。