15-1 信仰の原理に反する教えとその代表者達

何度私は農民達を、その無学無識の故(ゆえ)に 羨(うらや)ましく思ったことであろう。

私にとっては それから歴然たる でたらめが派生するような信仰命題からも、

彼らにとっては 何一つ虚偽(きょぎ)が派生することがなかった。

彼らはそれら諸命題を受容しつつ 真理を信ずること、
私も信じていたその真理を信ずることが出来た。

ただ可哀(かわい)そうにも 私だけにはその真理がごく細い糸で
虚偽と綴(と)じ合わされているということ、

それで、そのままの形では それを受容することは出来ない

ということがはっきりしていた。



私は 三年ばかりも こんな風に暮した。

そして 私がかけ出しの信者として、少しずつ真理に参入し、

ただ勘にたよって より明るく思われる方へ進んでいた間は、

この矛盾衝突は そうまで私を驚かせなかった。

何か私に理解出来ないものがあったりすると、私は自分に言うのだった、

《私が悪いんだ、私が馬鹿なんだ》と。

然(しか)しながら私が学んだ真理に 浸り切れば浸り切るほど、

それらの真理が ますます生活の基盤となればなる程、

これらの矛盾対立は 重苦しくかつショッキングになって来、

そしてますます、私が理解出来ない故に 理解しないものと、

それを理解した などというのは 
自分自身に嘘をつくことになるようなものとの間の一線が、はっきりして来るのであった。



これらの疑惑と懊悩(おうのう=悩みもだえること)があるにもかかわらず、

私は依然として 正教の信仰にしがみついていた。

然し どうでも解決せねばならぬ人生問題が現われ、

その際のそれら諸問題の解決法が、
私の依拠(いきょ=よりどころと)する信仰の原理に反することが、

決定的に私から、正教となじんで行く可能性を奪い去ったのである。



その問題というのは第一に、正教会の他の教会---カトリックとか、

いわゆる分離派の教会に対する関係だった。

その頃私は、信仰なるものに大いに関心を寄せて、

いろんな教義の信者らの中に、

道徳的に高く、真の信者というべき多くの人達を発見した。

私は そういった人達の兄弟になりたいと願った。

ところがどうだろう?

私に万人を唯一の信仰と愛によって合一せしめることを約束したその教え、

その教えの代表者達が私に、

これらの人達は すべて虚偽の中に生きている人達で、
彼らに生命力を与えているものは 悪魔の唆(そそのか)しに過ぎず、
ただ我々だけが唯一の可能な真理を所有しているのだ というのだった。

そしてまた私は、正教の信者達が、

カトリック教徒やその他の人達が 正教を異端とするちょうどそんな風に、

自分達と信仰を同じくしない人達を ことごとく異端者呼ばわりするのを見た。

更に私はまた、正教会が 自分と同じような外的なシンボルと言葉でもって

己が信仰を表現することをしない全(すべ)ての人々に、

つとめてそれを隠そうとはしていても、

敵意をもって対していること、

またこれは第一に、
お前は虚偽に生きているし、
自分は真理に生きているという断言ほど、
人が人に言える言葉の中で残酷きわまるものはないのだし、

第二に 自分の子供や兄弟を愛する人間としては、
彼の子供や兄弟を 誤った信仰に引き入れようとする人々に
敵意をもって対せずにはいられないものだといった事情に照(てら)しても、
至極当然のことであるということを見た。

そしてこの敵意は、
信仰教説に対する知識がますにつれて 強くなるのである。

そして愛による合一に真理を見ようとする私に、
いやでも、その信仰教説自体が、
それが生み出さねばならないはずのものを、
反対に破壊していることが眼につくのだった。