かくて生じた矛盾、その矛盾からのがれる道は二つだった。
私が合理的 と呼んだところのものが、
私が思ったほど合理的なものでなかったか
あるいは 私に非合理的と見えたところのものが、
私の思ったほど非合理的でなかったかということである。
そこで私は 自分の合理的見解に達した判断の過程の検討を始めた。
合理的見解の判断過程を検討して見て、
私はそれが 完全に正しいことを発見した。
人生が無に等しい という結論は 避け難いものであった。
でも私は 一つの誤謬(ごびゅう=まちがい)に気がついたのである。
その誤謬というのは、
私が、自分の提起した問題に呼応して物事を考えなかった ということだった。
問題はこうだった。
--なぜ私は生きるのか?即ち、私の幻影的な、
いつか滅び去る生から、どんな真実な 不滅なものが生ずるのか?
--この無限の世界における私の有限な存在に どんな意味があるのか?
この問題に答えるために 私は人生を研究し始めた。
☆
ありとあらゆる人生上の諸問題の解決も、
明らかに 私を満足させ得なかった。
なぜなら 私の問題は、最初は大変簡単なようだけど、
実は有限なものを 無限なものによって、
あるいはその逆に説明せよ という要求を含んでいるからである。
☆
私が問うたのは、
私の生の、
時間を超え因果律(=すべての事象は、必ずある原因によって起こり、
原因なしには何事も起こらないという原理)を超え、
空間を超えた意味は どんなものか?
と言うことだった。
ところが私が答えたのは、
私の生の、
時間と因果律と空間における意義如何?
如何(いかに=疑問をあらわして”どんなであろうか?”)
という問題に対してだった。
そこで長いこと苦しい思索を重ねた後で、
皆無! と答える始末だったのである。
☆
自分の考察において私はいつも、
そうより外に 出来もしなかったが、
有限なものを有限なものと、無限なものを無限なものと比較対照した。
そこで私には ごく当然の結論が生じた。
即ち 力は力であり、物体は物体であり、意思は意思、
無限は無限、皆無は皆無、
-- それ以上の結論の生れようはずはなかった。
☆
ちょうど数学で 方程式を解こうと思いながら、
恒等式を解いているといった場合に似たことが起きた。
思考過程は正しいのだが、
その結果得られる答えは、a は a に、あるいは X は X に、
あるいは0は 0 に等しいということである。
我が生の意味如何?
という問題に関する私の考察にも、
それと同じことが生じた。
この問題に対して、全ての学問が与えるところの答えは、
ただ 恒等式に外ならなかったのだ。
☆
また実際、厳格な学問的な知識、デカルトがやったように
あらゆるものを全面的に疑うことから始め、
あらゆる信仰に基づく知識を棄て去って、
全てを新しく 理性と経験の法則に基づいて打ち立てるところの知識は、
私が受け取った答え、
つまり未知数の答え以外のものを人生問題に対して与えることは出来ないのである。
私には ただ最初のうち、その知識が既知数的な答え、
つまりショーペンハウエルの
《人生に意味はなく、それは悪である》
という答えを与えたものと思われた。
でも真相を吟味して見て、私はこの答えが既知数でなく、
ただ私の感情が それをそう思わせたにすぎないことを悟った。
厳格に言い表わされたその答えというのは、
ちょうどブラーマン教徒やソロモンのような人や
ショーペンハウエルによって言い表わされているように、
ただ未知数的な答え、換言すれば0 は0 に等しいという、
生は皆無である という恒等式にすぎなかった。
かくて哲学的学問は 何物も否定しないで、
ただこの問題は彼には解けず、
彼にとっては解決はいつまでも未知数のままだ と答えるだけである。
☆
この事が分って私は、私の問題に対する答えを
合理的知識に求めてはいけないこと、
合理的な知識によって与えられる答えはただ、
解答は問題の立て方を変えた時に、
ただ考察の中に有限なものの無限なものへの関係
という問題が取り入れられた時に与えられるということを示すだけだ
ということを理解した。
私はまた、信仰によって与えられるという解答が
いかに非合理的でまた奇怪であっても、
それは答えの中に、
それなしでは答えが不可能なところの、
有限の無限に対する関係を導入するという長所があることも理解した。
☆
どんな風な問題の立て方をしても、
例えば、私は如何に生くべきか?なら
-- 答え、神の掟(おきて)に従って。
私の生からどんな真実なものが生れるか?なら
-- 無限なる神との合一、天国
といった工合(ぐあい)である。
☆
そこで私が唯一のものと思っていた合理的知識以外に、
今生きている全ての人類には、
更に他の超合理的な認識、つまり 信仰というものがあって、
それが 生きることを可能にしているということを、
否応(いやおう)なしに認めさせられたのである。
☆
信仰の あらゆる非合理性は、私にとって以前と変りはなかったけれど、
私はそれだけが人類に 人生問題への解答を、
したがってまた生きる可能性を与えているということを認めぬわけにゆかなかった。
Исповедь A Confession
Лeв Никола́евич Толсто́й Leo Tolstoy 遠くを見つめて Vision is the art of seeing the invisible.
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9-2 信仰というのは一体なんだろう
合理的な知識は私を、生の無意味さの承認に導いて、
私の生活は停滞し、私は 自殺を願うようになった。
周囲の人々を、全人類を見廻せば、
みんながちゃんと生きていて、
生の意味を知っていることを証拠立てているのが分った。
自分自身を顧(かえり)みれば、
私は生の意味を知っている間だけ生きて来たのだ。
外の人の場合と同様に、私にも信仰が 生の意味とその可能性とを与えたのだった。
☆
更に歩を進めて、外国の人々、また同時代人や過去の人達を眺めても、
私は全く同一のことを見た。
生のあるところ、そこには 人類始まって以来 いつも信仰があり、
生の可能性を与えている。
そして 信仰の主要な特徴は、古今東西問わず 同じようなものである。
☆
どんな信仰が 誰にどんな解答を与えようと、
信仰が与える解答はみんな、有限な存在である人間に無限なる意味
-- 苦悩や欠乏や死によって滅ぼされる意味を与えるのである。
即ち-- ただ信仰の中にのみ 生の意味と可能性とを見出すことが出来るのだ。
この信仰というのは 一体何だろう?
こう問うて見て、私は次のことを悟った。
つまり信仰とは、単に眼に見えぬもの その他を開示して見せることでもなく、
あるいは啓示でもなく(これは信仰の一特徴の単なる記述にすぎぬ)
人間の神に対する関係でもなく(最初に信仰を規定し、
その後で神を規定せねばならないので、神を持ち出して信仰を規定してはいけない)
更にまた 人が説くところのものに賛成する(信仰というものが
最もしばしば誤解されているように)ということのみでなく、
--- 信仰とは その結果 人が自殺しないで生きて行くところの、
人生の意味についての認識である、ということである。
信仰とは 生の力である。
人間が生きて行くのは、彼が何かを信仰しているからなのだ。
もし彼が、何かのために生きる必要があることを信じないなら、
生きて行けないであろう。
もし彼が有限なるものの夢幻性を理解するならば、
彼は 無限なものを信じなければならない。
信仰なしでは どだい 生きて行けはしないのだ。
☆
そこで私は、自分の内的苦悩の全過程を想い出して おじ気をふるった。
今や私には、人が生きて行けるためには、無限なものを見ないでいるか、
あるいはそこでは有限なものが 無限なものと並び立つ如き地盤の上での、
人生の意義の説明を持たねばならぬ ということがはっきり分った。
そうした説明解釈を私も持っていた。
しかしそんなものは 私が有限なものを信じている間は必要でなかったので、
私は 理性でもって それを検討し始めた。
その結果 従来の説明は 理性の光の前で 雲散霧消した。
然し 私が有限なるものを信じなくなる時が来た。
そして その時私は 合理的な基礎の上に、
自分が学んだところのものから
生に意味を与えるような説明解釈を打ち建てようとしたが、
何も打建てることが出来なかった。
人類の中の卓越した智者達と共に、
私は 0は0に等しい といったところに辿(たど)りつき、
もともとそうした結論になる外はないのに、
そうした結論を眼の前にして 大いに驚いたのである。
私の生活は停滞し、私は 自殺を願うようになった。
周囲の人々を、全人類を見廻せば、
みんながちゃんと生きていて、
生の意味を知っていることを証拠立てているのが分った。
自分自身を顧(かえり)みれば、
私は生の意味を知っている間だけ生きて来たのだ。
外の人の場合と同様に、私にも信仰が 生の意味とその可能性とを与えたのだった。
☆
更に歩を進めて、外国の人々、また同時代人や過去の人達を眺めても、
私は全く同一のことを見た。
生のあるところ、そこには 人類始まって以来 いつも信仰があり、
生の可能性を与えている。
そして 信仰の主要な特徴は、古今東西問わず 同じようなものである。
☆
どんな信仰が 誰にどんな解答を与えようと、
信仰が与える解答はみんな、有限な存在である人間に無限なる意味
-- 苦悩や欠乏や死によって滅ぼされる意味を与えるのである。
即ち-- ただ信仰の中にのみ 生の意味と可能性とを見出すことが出来るのだ。
この信仰というのは 一体何だろう?
こう問うて見て、私は次のことを悟った。
つまり信仰とは、単に眼に見えぬもの その他を開示して見せることでもなく、
あるいは啓示でもなく(これは信仰の一特徴の単なる記述にすぎぬ)
人間の神に対する関係でもなく(最初に信仰を規定し、
その後で神を規定せねばならないので、神を持ち出して信仰を規定してはいけない)
更にまた 人が説くところのものに賛成する(信仰というものが
最もしばしば誤解されているように)ということのみでなく、
--- 信仰とは その結果 人が自殺しないで生きて行くところの、
人生の意味についての認識である、ということである。
信仰とは 生の力である。
人間が生きて行くのは、彼が何かを信仰しているからなのだ。
もし彼が、何かのために生きる必要があることを信じないなら、
生きて行けないであろう。
もし彼が有限なるものの夢幻性を理解するならば、
彼は 無限なものを信じなければならない。
信仰なしでは どだい 生きて行けはしないのだ。
☆
そこで私は、自分の内的苦悩の全過程を想い出して おじ気をふるった。
今や私には、人が生きて行けるためには、無限なものを見ないでいるか、
あるいはそこでは有限なものが 無限なものと並び立つ如き地盤の上での、
人生の意義の説明を持たねばならぬ ということがはっきり分った。
そうした説明解釈を私も持っていた。
しかしそんなものは 私が有限なものを信じている間は必要でなかったので、
私は 理性でもって それを検討し始めた。
その結果 従来の説明は 理性の光の前で 雲散霧消した。
然し 私が有限なるものを信じなくなる時が来た。
そして その時私は 合理的な基礎の上に、
自分が学んだところのものから
生に意味を与えるような説明解釈を打ち建てようとしたが、
何も打建てることが出来なかった。
人類の中の卓越した智者達と共に、
私は 0は0に等しい といったところに辿(たど)りつき、
もともとそうした結論になる外はないのに、
そうした結論を眼の前にして 大いに驚いたのである。
9-3 ショーペンハウエルやソロモンの立場は、愚劣なものであることを悟った
経験科学の中に解答を探していた時、
私はどんなことをしたか?
私は何のため自分が生きているのかを知りたく思い、
そのために 自分の外部にあるものを 何もかも研究した。
これで私は 色々多くの事を知ることが出来たにしても、
私に必要なものは 何も知ることが出来なかったのは きまり切ったことである。
☆
では 私が解答を哲学的な学問の中に探し求めた時、 どんな風にやったか?
私は、自分は何のために生きているのかという問題に対する答えを持たぬこの私と、
まるで同じ状態にある人々の思想を研究した。
だから、私は私自身が知っていること--- つまり 何も分りはしないということの外、
何も分らなかったのは自明(じめい=証明などしなくても明らか)のことである。
☆
我とは何ぞや?
無限の一部である。すでにこの無限と一部という二つの言葉の中に、
全課題が横たわっている。
☆
こうした問題を、人類は 果してほんの昨日から自分に課したのであろうか?
果して私の前には 誰もこの問題を---まことに簡単な、賢い子供なら
どの子も口に出しそうなこの問題を、自分に課した者はなかったろうか?
☆
この問題は 人類が生存して以来、ずーっと問われて来たし、
そしてまた人類の生存以来、この問題の解決のためには、
有限を有限と照合しても、無限を無限と照合しても、
共に不充分だと分っていたし、
また人類生存以来、有限なるものの無限なものに対する関係が
探求され 表現されているのだ。
☆
ところで、その中で有限が無限に照合されて、生の意味が生じて来るといった
これら全ての理念、神・自由・善 といった理念を、
我々は 論理的研究の対象にする。
そうすれば これらの理念は、理性の批判に堪えないということになる。
☆
我々が どんなに高慢と自己満足をもって、子供が時計を分解して
中からゼンマイを引き出し、それを玩具にして、
そのあげく時計が動かなくなったといって びっくりする、といった、
まるでそんな風な事をやらかしているのを見るのは、
それがああまで恐ろしい事でさえなければ、むしろ滑稽だろうと思うのである。
☆
有限なものと無限なものとの矛盾の解決や、
それあって初めて生きる事が可能となるような人生問題の解答は、
まことに必要かつ貴重 と言わねばならない。
だのにこの、到る所、あらゆる民族の中に 我々が発見する唯一の解決、
我々にとって人類生活が もう姿を没しているくらいの太古から齎(もたら)された解決、
非常に困難で、我々にはその真似事も出来そうにないような解決
---そうした解決を 我々は軽率に破壊し、
そして又ぞろ 誰もの胸中にある、
そして我々が答えを持ち合わせていない疑問を持ち出す始末なのだ。
☆
無限なる神、霊の神性、人の業(わざ)と神との結合、霊の本質、
道徳的善意に対する人間的理解等々の観念は、
人間の思想の杳(よう)とした無限の中でつくられたもので、
それなくしては 生も、また私自身も存在しないであろうところのものなのに、
私は これら全人類の辛苦の所産を放擲(ほうてき=投げ出す)して、
自分だけで新しく、自己流に それをつくり上げようと欲するのだ。
☆
私は当時 そんな風なことを考えた訳ではないが、
そうした考えの萌芽(ほうが)は すでに私の中にあった。
私はまず第一に、私やショーペンハウエルやソロモンの立場は、
我々のすぐれた智慧にもかかわらず 愚劣なものであることを悟った。
というのは、我々は 生が悪であることを理解しながら、
やっぱり生きているからである。
これは 明らかに愚劣 と言わねばならない。
なぜなら、もし人生が愚劣なものであれば、
--私は合理的なものを大恋愛しているのだから--
その生を 滅せばいいので、
それを誰かに向って否定して見たりなど 余計なことであるから。
更に 第二に私は、全ての我々の判断は、
シャフトに噛み合わぬ車輪のように、
魔法の輪の周囲をぐるぐる廻っていることを理解した。
どんなに色々と、またどんなにうまく判断して見ても、
我々は 問題に対する解答を得ることが出来なくて、
いつも0イコール0になるから、多分我々の進む道は間違っているに違いなかった。
第三に私は、信仰によって与えられる解答の中に
最も深い人類の智慧がかくされていて、
私は 合理性を盾に それを否定する権利がない ということ、
これらの重大な答えだけが 人生問題に答えているのだ
ということを 理解し始めていた。
私はどんなことをしたか?
私は何のため自分が生きているのかを知りたく思い、
そのために 自分の外部にあるものを 何もかも研究した。
これで私は 色々多くの事を知ることが出来たにしても、
私に必要なものは 何も知ることが出来なかったのは きまり切ったことである。
☆
では 私が解答を哲学的な学問の中に探し求めた時、 どんな風にやったか?
私は、自分は何のために生きているのかという問題に対する答えを持たぬこの私と、
まるで同じ状態にある人々の思想を研究した。
だから、私は私自身が知っていること--- つまり 何も分りはしないということの外、
何も分らなかったのは自明(じめい=証明などしなくても明らか)のことである。
☆
我とは何ぞや?
無限の一部である。すでにこの無限と一部という二つの言葉の中に、
全課題が横たわっている。
☆
こうした問題を、人類は 果してほんの昨日から自分に課したのであろうか?
果して私の前には 誰もこの問題を---まことに簡単な、賢い子供なら
どの子も口に出しそうなこの問題を、自分に課した者はなかったろうか?
☆
この問題は 人類が生存して以来、ずーっと問われて来たし、
そしてまた人類の生存以来、この問題の解決のためには、
有限を有限と照合しても、無限を無限と照合しても、
共に不充分だと分っていたし、
また人類生存以来、有限なるものの無限なものに対する関係が
探求され 表現されているのだ。
☆
ところで、その中で有限が無限に照合されて、生の意味が生じて来るといった
これら全ての理念、神・自由・善 といった理念を、
我々は 論理的研究の対象にする。
そうすれば これらの理念は、理性の批判に堪えないということになる。
☆
我々が どんなに高慢と自己満足をもって、子供が時計を分解して
中からゼンマイを引き出し、それを玩具にして、
そのあげく時計が動かなくなったといって びっくりする、といった、
まるでそんな風な事をやらかしているのを見るのは、
それがああまで恐ろしい事でさえなければ、むしろ滑稽だろうと思うのである。
☆
有限なものと無限なものとの矛盾の解決や、
それあって初めて生きる事が可能となるような人生問題の解答は、
まことに必要かつ貴重 と言わねばならない。
だのにこの、到る所、あらゆる民族の中に 我々が発見する唯一の解決、
我々にとって人類生活が もう姿を没しているくらいの太古から齎(もたら)された解決、
非常に困難で、我々にはその真似事も出来そうにないような解決
---そうした解決を 我々は軽率に破壊し、
そして又ぞろ 誰もの胸中にある、
そして我々が答えを持ち合わせていない疑問を持ち出す始末なのだ。
☆
無限なる神、霊の神性、人の業(わざ)と神との結合、霊の本質、
道徳的善意に対する人間的理解等々の観念は、
人間の思想の杳(よう)とした無限の中でつくられたもので、
それなくしては 生も、また私自身も存在しないであろうところのものなのに、
私は これら全人類の辛苦の所産を放擲(ほうてき=投げ出す)して、
自分だけで新しく、自己流に それをつくり上げようと欲するのだ。
☆
私は当時 そんな風なことを考えた訳ではないが、
そうした考えの萌芽(ほうが)は すでに私の中にあった。
私はまず第一に、私やショーペンハウエルやソロモンの立場は、
我々のすぐれた智慧にもかかわらず 愚劣なものであることを悟った。
というのは、我々は 生が悪であることを理解しながら、
やっぱり生きているからである。
これは 明らかに愚劣 と言わねばならない。
なぜなら、もし人生が愚劣なものであれば、
--私は合理的なものを大恋愛しているのだから--
その生を 滅せばいいので、
それを誰かに向って否定して見たりなど 余計なことであるから。
更に 第二に私は、全ての我々の判断は、
シャフトに噛み合わぬ車輪のように、
魔法の輪の周囲をぐるぐる廻っていることを理解した。
どんなに色々と、またどんなにうまく判断して見ても、
我々は 問題に対する解答を得ることが出来なくて、
いつも0イコール0になるから、多分我々の進む道は間違っているに違いなかった。
第三に私は、信仰によって与えられる解答の中に
最も深い人類の智慧がかくされていて、
私は 合理性を盾に それを否定する権利がない ということ、
これらの重大な答えだけが 人生問題に答えているのだ
ということを 理解し始めていた。
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