8-3 「合理的な見解=生は悪」VS信仰「理性の否定」

私は永いこと、言葉の上でなく 事実において

我々 最もリベラルでまた学問ある人々に特有の、

こうした狂気の状態のうちに暮した。

然しながら 私のうちに、真の労働階級に対する一種不思議な、
フィジカルな愛情があって、

私に彼らを理解させ、

彼らが 我々の考えるほど愚かでない ということを示してくれたからか、

あるいはまた、私としては 
自分の出来る最善なことは首を縊(くび)ることだということの外
何も知らない という確信が 嘘いつわりのないものであったためか、

--- 私は、もし自分が生きて行きたいし、生の意味を悟りたいならば、

その意味を、勿論 生の意味を失って 自殺しようと欲している人達の中にでなく、

数十億の過去及び現在の人類大衆、自分自身や我々の生活を造り、

それを支えている人々の間に 探さなければならない と直感したのだった。

☆

そこで私は 過去及び現在の、
素朴な、学問も富もない、量り知れぬ数の 一般大衆を見廻して、

まる別個のものを見たのである。

私には、過去及び現在の これら幾十億の人々は、

みんな、ほんの稀(まれ)な例外はあっても、

私の分類の中にはいって来ないこと、

また 彼ら自身 問題を非常に明白に提起し、
それに答えているのだから、
彼らを 問題を理解せぬもの
と認める訳には行かない、ということがわかった。

☆

彼らを快楽主義者 と呼ぶことも出来なかった。

というのは、彼らの生活は 快楽よりもむしろ欠乏と苦悩からなっているのだから。

また 不合理に無理のない生活をつづけているものとは なおさら言えなかった。

というのは、彼らの生活上の実践も、死そのものも、
彼らにはちゃんと説明がついていたからである。

☆

自殺することは、彼らは 最大の悪と考えていた。

全人類の中には 何かこう 私の認め難い、
軽蔑しているような人生の意義に関する見解があることが分った。

つまり 合理的な見解は、生の意味を与えないで それを排除する。

幾十億の人々によって、全人類によって与えられる生の意味は、
何か軽蔑に値する、間違った見解に基づいている ということになるのだった。

☆

学者や智者の中の合理的な見解は、人生の意味を否定するが、

莫大な数の人々、全人類--は その意味を不合理な見解の中に認める。

そしてこの不合理な見解というのが、

外ならぬ 信仰、
私が放棄せざるを得なかった その 信仰だったのだ。

それは一体にして 三位なる神、

六日間での天地の創造、悪魔と天使、

その他 私が狂気にでもならぬ限り認めるわけに行かぬ一切のことだった。

☆

私の立場は 恐ろしいものだった。

私は 自分が合理的見解の道に進めば、
生の否定以外 何も発見しないことが分っていたし、

また 信仰の世界には、生の否定より もっと不可能であるところの、
理性の否定以外に 何もないことが分った。

☆

合理的見解に従えば、生は悪であり、
人々はそれを知っているのであるから、
生きたくなければ それは彼らの意のままのはずである。

ところが 彼らはこれまで生きて来たし、生きつつあり、
かく言う私も、もうとっくに 生が無意味であり悪であることを知っていながら生きて来た。
---といったことになる。

一方 信仰によれば、

人生の意味を理解するためには、

私は理性を、まさにそれにとってこそ意味が必要な理性を
自(みずか)ら否定し去らねばならぬ
---ということになる。