これらの全ての疑念は、今でも多少纏(まと)まった形で述べることが出来るけれど、
当時はまだ自分でも言い表わせなかったろうと思う。
当時は 私はただ、
最も優れた思想家達から確認された、
自分の、人生は空しいものであるという結論が、
よし論理的にどんなに抜きさしならぬものだとしても、
何かちょっとおかしいところがある、 と感じていただけだった。
判断そのものにおいてか、問題の立て方においてか知らないが、
ただ、理窟の上での説得力は完全であるけれど、
どうもそれだけでは足りない と感じていた。
これらの全ての結論は、
私に その判断から当然生ずるはずのもの、
つまり私が自殺する という事態を 実際に惹き起す程に説得的ではなかった。
それも 自分が理性の力で行き着く所まで行き着いて、
ために敢(あえ)て自殺しなかったのだと言えば嘘になるだろう。
理性も働いたには働いたが、
もっと違った何か、
私には 生命の常識とでも呼ぶ外 呼びようのないものも 働いた。
私の注意を従前と違った方面へ向けさせる力が別に働いて、
この力が私を絶望状態から救い出し、
私の理性の方向を 完全に変えたのである。
この力は私に、私や私に似た何百人かの連中が 全人類なんかでなく、
私はまだ人類生活が分っていないのだということに注意を促したのだ。
☆
私と同輩の 狭い範囲の人々を見廻して、
私はただ、問題を理解しない人や、理解しながら生に酔うことで紛らしている人や、
それを理解して自殺する人や、
理解しながらも優柔不断に絶望的な生活をつづけている人だけを見た。
それ以外の人達は 見当らなかった。
私には、自分もそれに属している学者や金持ちや
有閑階級の狭いサークルが 全人類を構成していて、
今日まで生きて来、また現在も生きつつある幾十億の人々は、
まぁ家畜みないなもので、人間とは言えない といった気がしていた。
Исповедь A Confession
Лeв Никола́евич Толсто́й Leo Tolstoy 遠くを見つめて Vision is the art of seeing the invisible.
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8-2 自分の智慧の傲り
今思えば、私が人生について考察する時、
どうして私を四方から取囲んでいる人類の生活を看過(かんか=見逃すこと)したのか、
どうして自分が、
私やソロモンやショーペンハウエルのような人の生活こそ
真正かつノーマルな生活であって、
幾十億の人々の生活は、注意を向けるだけのこともない その背景にすぎぬ
と考える程まで滑稽な迷誤(めいご)に陥ったか、不思議なくらいだけれど--
--全く今思えば 不思議でしょうがないけれど、やっぱりそうだったということが分る。
自分の智慧の傲(おご)りの故に迷っていた頃、
私は私がソロモンやショーペンハウエルと共に、
問題を最も忠実に正しく提起(ていき=問題・話題などを持ち出すこと)していて、
外に提起の仕様はないと頭から思い込んでいたので、
--また幾十億の人類大衆は 悉(ことごと)く
問題の深みを理解するに至らぬ人々に外ならないと
信じて疑わなかったので、
自分が人生の意味を探求する際に
一度も、
《これら全て幾十億の、この世に過去にも生きて来たし
現在も生きている人々は、自分の生活にどんな意味を与えているのだろう?》
と考えたことはなかった。
どうして私を四方から取囲んでいる人類の生活を看過(かんか=見逃すこと)したのか、
どうして自分が、
私やソロモンやショーペンハウエルのような人の生活こそ
真正かつノーマルな生活であって、
幾十億の人々の生活は、注意を向けるだけのこともない その背景にすぎぬ
と考える程まで滑稽な迷誤(めいご)に陥ったか、不思議なくらいだけれど--
--全く今思えば 不思議でしょうがないけれど、やっぱりそうだったということが分る。
自分の智慧の傲(おご)りの故に迷っていた頃、
私は私がソロモンやショーペンハウエルと共に、
問題を最も忠実に正しく提起(ていき=問題・話題などを持ち出すこと)していて、
外に提起の仕様はないと頭から思い込んでいたので、
--また幾十億の人類大衆は 悉(ことごと)く
問題の深みを理解するに至らぬ人々に外ならないと
信じて疑わなかったので、
自分が人生の意味を探求する際に
一度も、
《これら全て幾十億の、この世に過去にも生きて来たし
現在も生きている人々は、自分の生活にどんな意味を与えているのだろう?》
と考えたことはなかった。
8-3 「合理的な見解=生は悪」VS信仰「理性の否定」
私は永いこと、言葉の上でなく 事実において
我々 最もリベラルでまた学問ある人々に特有の、
こうした狂気の状態のうちに暮した。
然しながら 私のうちに、真の労働階級に対する一種不思議な、
フィジカルな愛情があって、
私に彼らを理解させ、
彼らが 我々の考えるほど愚かでない ということを示してくれたからか、
あるいはまた、私としては
自分の出来る最善なことは首を縊(くび)ることだということの外
何も知らない という確信が 嘘いつわりのないものであったためか、
--- 私は、もし自分が生きて行きたいし、生の意味を悟りたいならば、
その意味を、勿論 生の意味を失って 自殺しようと欲している人達の中にでなく、
数十億の過去及び現在の人類大衆、自分自身や我々の生活を造り、
それを支えている人々の間に 探さなければならない と直感したのだった。
☆
そこで私は 過去及び現在の、
素朴な、学問も富もない、量り知れぬ数の 一般大衆を見廻して、
まる別個のものを見たのである。
私には、過去及び現在の これら幾十億の人々は、
みんな、ほんの稀(まれ)な例外はあっても、
私の分類の中にはいって来ないこと、
また 彼ら自身 問題を非常に明白に提起し、
それに答えているのだから、
彼らを 問題を理解せぬもの
と認める訳には行かない、ということがわかった。
☆
彼らを快楽主義者 と呼ぶことも出来なかった。
というのは、彼らの生活は 快楽よりもむしろ欠乏と苦悩からなっているのだから。
また 不合理に無理のない生活をつづけているものとは なおさら言えなかった。
というのは、彼らの生活上の実践も、死そのものも、
彼らにはちゃんと説明がついていたからである。
☆
自殺することは、彼らは 最大の悪と考えていた。
全人類の中には 何かこう 私の認め難い、
軽蔑しているような人生の意義に関する見解があることが分った。
つまり 合理的な見解は、生の意味を与えないで それを排除する。
幾十億の人々によって、全人類によって与えられる生の意味は、
何か軽蔑に値する、間違った見解に基づいている ということになるのだった。
☆
学者や智者の中の合理的な見解は、人生の意味を否定するが、
莫大な数の人々、全人類--は その意味を不合理な見解の中に認める。
そしてこの不合理な見解というのが、
外ならぬ 信仰、
私が放棄せざるを得なかった その 信仰だったのだ。
それは一体にして 三位なる神、
六日間での天地の創造、悪魔と天使、
その他 私が狂気にでもならぬ限り認めるわけに行かぬ一切のことだった。
☆
私の立場は 恐ろしいものだった。
私は 自分が合理的見解の道に進めば、
生の否定以外 何も発見しないことが分っていたし、
また 信仰の世界には、生の否定より もっと不可能であるところの、
理性の否定以外に 何もないことが分った。
☆
合理的見解に従えば、生は悪であり、
人々はそれを知っているのであるから、
生きたくなければ それは彼らの意のままのはずである。
ところが 彼らはこれまで生きて来たし、生きつつあり、
かく言う私も、もうとっくに 生が無意味であり悪であることを知っていながら生きて来た。
---といったことになる。
一方 信仰によれば、
人生の意味を理解するためには、
私は理性を、まさにそれにとってこそ意味が必要な理性を
自(みずか)ら否定し去らねばならぬ
---ということになる。
我々 最もリベラルでまた学問ある人々に特有の、
こうした狂気の状態のうちに暮した。
然しながら 私のうちに、真の労働階級に対する一種不思議な、
フィジカルな愛情があって、
私に彼らを理解させ、
彼らが 我々の考えるほど愚かでない ということを示してくれたからか、
あるいはまた、私としては
自分の出来る最善なことは首を縊(くび)ることだということの外
何も知らない という確信が 嘘いつわりのないものであったためか、
--- 私は、もし自分が生きて行きたいし、生の意味を悟りたいならば、
その意味を、勿論 生の意味を失って 自殺しようと欲している人達の中にでなく、
数十億の過去及び現在の人類大衆、自分自身や我々の生活を造り、
それを支えている人々の間に 探さなければならない と直感したのだった。
☆
そこで私は 過去及び現在の、
素朴な、学問も富もない、量り知れぬ数の 一般大衆を見廻して、
まる別個のものを見たのである。
私には、過去及び現在の これら幾十億の人々は、
みんな、ほんの稀(まれ)な例外はあっても、
私の分類の中にはいって来ないこと、
また 彼ら自身 問題を非常に明白に提起し、
それに答えているのだから、
彼らを 問題を理解せぬもの
と認める訳には行かない、ということがわかった。
☆
彼らを快楽主義者 と呼ぶことも出来なかった。
というのは、彼らの生活は 快楽よりもむしろ欠乏と苦悩からなっているのだから。
また 不合理に無理のない生活をつづけているものとは なおさら言えなかった。
というのは、彼らの生活上の実践も、死そのものも、
彼らにはちゃんと説明がついていたからである。
☆
自殺することは、彼らは 最大の悪と考えていた。
全人類の中には 何かこう 私の認め難い、
軽蔑しているような人生の意義に関する見解があることが分った。
つまり 合理的な見解は、生の意味を与えないで それを排除する。
幾十億の人々によって、全人類によって与えられる生の意味は、
何か軽蔑に値する、間違った見解に基づいている ということになるのだった。
☆
学者や智者の中の合理的な見解は、人生の意味を否定するが、
莫大な数の人々、全人類--は その意味を不合理な見解の中に認める。
そしてこの不合理な見解というのが、
外ならぬ 信仰、
私が放棄せざるを得なかった その 信仰だったのだ。
それは一体にして 三位なる神、
六日間での天地の創造、悪魔と天使、
その他 私が狂気にでもならぬ限り認めるわけに行かぬ一切のことだった。
☆
私の立場は 恐ろしいものだった。
私は 自分が合理的見解の道に進めば、
生の否定以外 何も発見しないことが分っていたし、
また 信仰の世界には、生の否定より もっと不可能であるところの、
理性の否定以外に 何もないことが分った。
☆
合理的見解に従えば、生は悪であり、
人々はそれを知っているのであるから、
生きたくなければ それは彼らの意のままのはずである。
ところが 彼らはこれまで生きて来たし、生きつつあり、
かく言う私も、もうとっくに 生が無意味であり悪であることを知っていながら生きて来た。
---といったことになる。
一方 信仰によれば、
人生の意味を理解するためには、
私は理性を、まさにそれにとってこそ意味が必要な理性を
自(みずか)ら否定し去らねばならぬ
---ということになる。
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