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5-1 学問の中を探しまわった

《だが ひょっとすると、私は何かを見落としていないだろうか?
何かを理解し損っているのではないか?》

幾度か私は こう自問した。

《こうした絶望的状態が、人間に固有の宿命だなどということは、
あり得るはずがないではないか!》

そこで私は、人々が獲得したあらゆる学問の中に、

私の疑問に対する説明を探した。

苦しみながら 永いこと探した。

のんきな好奇心とか、また漫然とした気持ちで探したのではなく、

滅亡に直面した人が 救いを探し求めるように、
苦しみながら、執拗に、昼夜の別なく探した。

-- それでも なんにも見つからなかったのである。

☆

私は あらゆる学問の中を探しまわった。
それでもやっぱり説明が見つからなかったばかりではなく、
私のように 学問の中にそれを探したものは、
みんなちょうど私みたいに、なんにも発見出来なかったのだ
ということを 確信するようになった。

それも単に発見出来なかったばかりでなく、
私を絶望に導いたところのそのもの、即ち 所詮人生は無意味である
という事実こそ、人間に手の届く唯一の疑いなき知識であるということを、
はっきり承認しているのだった。

☆

私は どこもかしこも探したし、

また私が過した学究生活のおかげで、それと同様に、
学者社会との交際によって 私には自分の学問をすっかり私に、
書物でばかりでなく談話においても披露することを辞せぬ
ありとあらゆる学問分野の学者達自身と接することが出来たという事実のおかげで、

私は 学問がおよそ人生問題に答え得るところの全てを知ったのである。

私は永い間どうしても、学問というものが人生問題に対して
現在答えているようなこと以外には、
何も答え得ない ということを信ずることが出来なかった。

永いこと私には、実人生の諸問題と何らかかわりのない
その諸命題を説き立てる科学の、物々しい、勿体ぶった調子に眼を注いで、
自分は何か理解し損っているのではないかという気がした。

永いこと私は学問に対しておじ気を懐(いだ)き、
学問の与える答えが 私の疑問にぴったりしないことの原因は、
学問のせいではなくて、私の無理解のせいだという気がした。

でも 事は私にとって冗談半分でもなく、気なぐさみでもなく、
全生活の問題だった。 

そこで私はいや応なしに、

私の疑問こそ、あらゆる学問の土台となるべき当然の問題であり、

こうした疑問を持つ私が悪いのでなくて、

もしも科学がおこがましくも これらの疑問に答え得るとするならば、

その方にこそ罪はあるのだ という確信に達したのである。

☆

私の疑問-- 50歳の時 私を自殺に導こうとした--は万人の胸中に、

物心つかぬ幼児から最も聡明な老人にいたる万人の胸中に横たわる、

最も単純な疑問であって、

私が実際に経験したように 

それなしでは 人生そのものが不可能であるところのものである。

その疑問というのは 次のようだった。

《私が今日なすこと、明日なすであろうことから 何が生ずるのか?

-- 私の全生涯から 何が生れ出るのか?》

☆

この疑問を別な風に言い現わせば、次のようになるであろう。

《一体なぜ、私は生きて行くのか? 
なぜ何かを望むのか?なぜ何かを為すのか?》


もっと別な言い方をすれば、次のようにも言える。

《私の生に、どうにものがれようのない、
そして目前に迫っている死によって滅ぼされない、


なんらかの意味があるのだろうか?》

☆

この、表現こそ様々でも唯一つである疑問に対する答えを、
私は人間の学問の中に探した。


そして私は この疑問に対して あらゆる人間の学問は、

いわば向い合う二つの半球にわけられていて、

相対する尖端に各々 南極北極があるという具合なのを発見した。

一つは否定的な、他は肯定的な。

然しながら 否定肯定いずれの極にも、

人生問題に対する答えはなかったのである。

☆

一方の系列の学問は、いわば問題の存在を認めないで、

その代り それに頓着(とんちゃく=深く気にかけてこだわること)なく
自分で提起した問題に、明白かつ正確に答える。

それは経験科学の系列で、その尖端には数学がある。

も一つの学問の系列は、問題の存在を認めるけれども、
それに答えることをしない。

それは思弁的学問の系列で、その尖端には形而上学がある。

☆

ずっと若い頃から、私は思弁的学問に興味を覚えた。

でもその後、数学や自然科学が私を魅惑した。

そして私が自分の疑問をはっきり自分に提起しない間は、
この疑問が切実になって来て、
執拗(しつよう)に解答を迫るということがなかったその間は、

私が学問が与えるそれらの問題解答の模造品で満足していたのである。

で経験科学の分野で言えば、私は自分に次のように言いきかせた。

《万物は発展し、分化し、高等化し、完成へと向って行く。
そしてその運行を導く諸法則がある。お前は全の中の個である。
可能な限りこの全を認識し、また発展の法則を認識すれば、
お前はこの全におけるお前の位置、
そしてまた お前自体を認識することが出来るのだ》と。


白状するのが恥ずかしいくらいだけれども、
まぁこれくらいのところで満足していた時代が 私にあったのである。

それは 私自身がまさに成熟し発達しつつある時代だった。

私の筋肉は発育し、強健になり、記憶力は豊かになり、
思考力と理解力は増大していた。


私は成長し、発達していた。

そしてこの成長を身内に感ずる私が、
これこそ、私がその中に私の人生の諸問題の解決をも発見できる、
全世界の法則だと考えたのも 無理はなかったのである。

でも 私の中の成長が停止する時がやって来た。

私は自分が発達しているのではなく、萎縮(いしゅく)しつつあるのを感じた。

筋肉の力は弱まり、歯は脱(ぬ)けはじめたのだ。

そこで私は、この法則が私に何も納得の行く説明を与えないばかりか、

どだいそんな法則もありもしなかったし、あるはずがないし、
生涯の或る特定の期間に自分の中に見出したものを、
法則と思い過しただけの話ということが分った。

そこで私は もっと厳正な態度で、この法則を裁定して見ようとした。

そしてその結果、無限の発展の法則など あり得ないことがはっきりした。

また、無限の空間と時間の中で
万物は発展し、完全化し、高等化し、分化するなどと言ってみても
--- それはただ空言(そらごと=うそ)を弄(もてあそ)んでいるにすぎない
ということが はっきりした。

そんなものはみんな-- なんら意味を持たぬ言葉にすぎない。

なぜなら、無限の中には
複雑なものとか単純なものとか前とか後とか、
良いとか悪いとかいったものは ないのだから。

5-2 学問--人生問題への適用には向かない

何よりも肝心なことは、私の個人的な疑問
--このもろもろの願いを持つ私とは 一体何であるのかということ--に対しては、

まるでもう 解答が与えられないのである。

そこで私は、これらの学問は大変興味深く、また 魅力的であるけれども、

これらの学問が正確かつ明白であればあるだけ、

どうも人生問題への適用には向かないことを悟った。

それらの学問の人生問題への適用度が少なくなるにつれて、
正確さと明白さが増大する。

それが人生問題の解決を与えようと試みれば試みるほど、

ますます曖昧(あいまい)な、色褪(いろあ)せたものになって行くのだ。

人生の諸問題に解決を与えようとするこれらの学問の分野--生理学、
心理学、生物学、社会学 といったものに眼を転ずれば、

直(ただ)ちに呆(あき)れるばかりの思想の貧困、とてつもない曖昧さ、

柄にもなく問題を解決したつもりのまるで不当な僭越沙汰(せんえつざた)、

そして1人の思想家に対する他の思想家達の対立抗争、

否、自分自身との矛盾撞着(むじゅんどうちゃく=矛盾に突き当たること)
といったものまで眼につくであろう。

一方 人生問題の解決には手を染めないで、

ただ自分の学問的専門的な問題に答える学問分野に眼を向ければ、

人間の知力というものに驚嘆せずにはいられないが、
然し前もって、人生問題への解答がないことが分っているのである。

これらの学問は、まるで人生問題を無視しているのだ。

彼らは言う。

《お前が何者で、なんのために生きているのかということは、

我々として答えられないし、そんな事を研究しているのでもない。

でももしお前が、光の法則、化合の法則、
あるいは有機体の発達の法則について知りたいと思うならば、

また人体とその組織の法則、数と量との相関関係の法則が知りたければ、
更にまたお前の心の動きの法則が知りたいならば、

そうしたことなら何でもはっきりした、
正確な、疑う余地のない答えを持ち合わせている》と。

☆

経験科学の、人生問題に対する関係を要約すれば、次のようになるであろう。

問: なぜ私は生きているのか?

答: 無限に広がる空間と、無限につづく時間の中で、無限小の微分子が、
無限の複雑さで変化している。で、お前がこの変化の法則を理解するならば、
その時なぜお前が地上に棲息(せいそく)するか分るだろう。

☆

一方 思弁的学問の分野において、私は次のように自分にいうのだった。

《全人類は 己れを導く精神的本源、精神的諸理想の基礎上に生活し進展して行く。
これらの諸理想は 宗教に科学に、芸術に、政治形体に反映する。
これらの諸理想は 常に向上に向上を続け、
ついには人類は 最高の福祉に到達する。この私は人類の一分子である。
だから私の使命は、人類の諸理想の自覚と現実に協力することにあるのだ》と。

そういう訳で私は 皮相的に物を考えていた間は、こんなことで満足していた。

然し人生問題がはっきりした形で胸中に生ずるや否や、

そんなセオリー(theory= 理論。学説)など
ことごとく瞬時にして潰(つい)え去るのだった。


この種の学問が、人類のほんの小部分の検討から導き出した結論を、
全般的結論であるかの如く称する いかがわしい不正確さは問わぬとしても、

また人類の理想が何に存するかに関して、種々の陣営の人達の見解が
互いに対立していることは問わぬとしても、

この種の見解のきてれつさ(いっそ馬鹿々々しさ と言いたいくらいだが)は、

各人の前にたちはだかる《私は一体何者か?》
あるいは《なぜ私は生きているのか》
あるいは《私は何を為すべきであるか?》という疑問に答えるためには、

各人は予(あらか)じめ《或るごく短期間の、或る微小な部分しか知らぬ、
未知なる全人類の生活とは何か?》を解決する必要がある、という点にあった。

彼が 自分は何者であるかを理解するためには、
人は前以(まえもっ)て、彼と同様 自分自身を理解しないでいる人達からなる
この神秘な全人類とは何か、を理解しなければならない という訳である。

5-3 哲学はそれに答えない

白状すれば、 そういったことを信じていた時期が 私にもあったのである。

それは 自分の恣欲(しよく)を
あたかもジャスティファイ(justify=正当化)する お気に入りの理想があった時期で、

私は自分の恣欲を
あたかも人類の法則かのように見なし得るセオリーを考えつこうと努力していた。


然し私の胸中に人生の疑問がすっかり鮮明になるや否や、

こうした解答は 風の前の塵(ちり)のように吹き飛んでしまった。

そして私は、経験科学の中にも 真の科学と、
自分の領分でない問題に解答を与えようとする擬似(ぎじ)科学があるように、


思弁的学問の領域にも、
柄にもない問題に答えようと努める 最も通俗的な学問の系列が、
長々とつらなっているということが分った。

この部門の擬似学問--法律学、社会--歴史学、といったもの--は、

それらがてんでに全人類の問題のひとりよがりの解決をすることで、

生(な)まの人間的問題を解こうとしているのだ。

☆


しかしながら経験科学の領域においても、

自分がいかに生く可(べ)きかを真剣に問う者にとって、

《無限の空間の中で、無限の時間に無限の複雑さをもって変化する、
無限の諸分子について研究せよ、
そしたら自分自身の生が理解できるだろう》 という解答では、満足出来ないように、

---まさにそのように、真摯(しんし=まじめで熱心)な人間には、

我々がその起源も終末も知ることの出来ない、
またそのほんの一部をも知らないところの全人類の生活を研究せよ、

そしたら自分の生というものが理解できよう、

などいう答では 満足出来っこないのである。

そしてまた、擬似経験科学の場合と全く同様に、これらの擬似学問は、
それらが自分の課題からそれればそれるだけ、
曖昧さと不正確さと 愚劣さと矛盾撞着とに充たされて来る。

経験科学の課題は、物質界の諸現象の因果論的考察にある。

経験科学が窮極原因の問題を持ち出すや、まるで たわごとがでっち上がる。
思弁的学問の課題は、因果律を超えた生命の本質を認識することにある。
社会的とか歴史的とかの、因果の世界の現象の考察を取り込むや、

これまた たわごとにすぎなくなる。

☆

経験科学は、それが窮極原因をその研究の対象にしない場合のみ、
実証的な知識を与え、人智の偉大さを示してくれる。

ところが反対に 思弁的学問においては、

それが因果律下の諸現象の関連性を完全に離れて、
人間をただ窮極原因との関係において観察する場合にのみ、
人智の偉大さを示すのだ。

それこそ思弁的学問の分野においてその分野の極をなすもの--
即ち 形而上学 あるいは哲学に外ならない。

この学問は はっきりと《我及び世界は一体何者であるか?》
《なんのために私は存在し、また全世界は存在するのか?》
という疑問を提起する。

そしてその学問は その発生以来、常に同じ答えをして来た。

哲学者が我の中に、そしてあらゆる存在者の中にある生命の本質を

理念とか、実体とか、精神とか、意思とか、どんな風に呼ぼうと、

彼はただもう この本質が存在し、我もその本質そのものである
ということだけを言う。

然しながら、なぜ本質なぞ いうものがあるのか、

ということは 哲学者も知らないし、

もし彼が厳正な思想家であれば、それに答えたりしないのだ。

《なぜそんな本質が存在するのか?それが存在し、
また存在するであろうことから 何が招来(しょうらい=もたらす)されるのか》

と私は問う。

すると哲学はそれに答えないのみか 自分でもそれを問いかえす始末である。

そしてまたそれが 真正(しんせい=本物)の哲学であるならば、

その全機能は この疑問をはっきり提起することにのみある訳である。

そしてまた、それが己れの課題を固守する限り、

《我及び全世界は何者であるか?》との問いには《一切であり、無である》
とより外はには、また《一体何のために?》との問いには
《何のためって----それは分らない》とより外に答え得ないのである。

かくて哲学が与える思弁的解答をどんなにひねくり廻しても、

私は何ら解答らしきものを得ることが出来ない。

それも明晰(めいせき)な経験科学の領域におけるように、

解答が私の疑問と無交渉であるからでなく、

哲学においては

全知的活動がまさに私の疑問に向けられているのだけれど、

解答が存在せず、

解答の代わりに ただ複雑な形式の またぞろ同じ疑問が生ずるからである。